シンポジウム「保元物語・平治物語の注釈から」

『保元物語』の諸問題………………………………清水由美子

1. はじめに
 今日は、色々と勉強させていただけるのを楽しみにやって参りました。
 今回の全四巻のシリーズの企画で、『将門記』から『承久記』までを取り扱う第一巻に「武者の世が始まる」というタイトルをお付けになったことを拝見しました。「武者の世が始まった」というのは、言うまでもなく、自らの父親も関わった保元の乱を総括した慈円の感慨(『愚管抄』)ですが、考えてみますと、この「武者の世」の始まりは、歴史の画期として新たな時代の始まりと意識させると同時に、それに相対する天皇政権というものを常に想起させるものでもあります。

平将門の乱  台頭し始めた武士の戦いとそれを朝敵として制圧しようとした天皇政権
           +  将門自身の「新皇」という名乗り
保元の乱   兄弟の争いとくくられた、現天皇と元天皇の争い
           +  乱を平定した武士の武力
平治の乱   院近臣の間で起きた勢力争い
           +  それを平定した武士の武力
承久の乱   新しい政権としての幕府と、旧来の天皇政権の戦い

 『将門記』の描く平将門も、朝敵とされてはいますが、「新皇」と名乗ったことからもわかるように、彼自身の中には、臣籍降下したとは言え、そう名乗ることが許される程度の天皇家の血を引く者としての認識があったのではないかと考えられます。その後、前九年・後三年の合戦を経て、源氏と平氏という二つの武士の家が関わって起きたのが保元の乱ですが、そこでは、天皇と元天皇の戦いが描かれているわけです。
 後で申し上げるように、『保元物語』の主人公の一人と言ってもよい源為朝を、源氏の一武将としてだけではなく、「王権への反逆者」と評価するのかどうか、見方が分かれるのも、そうした乱の本質によると考えます。そして、勝った方の後白河天皇の身近で起きた争いが平治の乱へとつながり、平氏政権、治承・寿永の内乱へと続いていくこととなります。『平治物語』での藤原信頼の、「太って身動きが出来ない、裏で起きていることにも気づかずにいるような愚鈍、馬にも乗れない」などの、戯画化とも言える書き方を、背後にいる後白河院の存在を隠すためだとする佐倉由泰氏の説(『軍記物語の機構』汲古書院、2011年)が思い出されます。承久の乱では、天皇王権が武士政権の前に敗北を喫し、天皇たちが配流されます。『平家物語』を除き、承久の乱を描く『承久記』までがこの軍記物語講座第一巻にならぶ作品です。
 その流れに注目しますと、『平家物語』は、やや特異と言っていいのではないかと思われます。『平家物語』には「朝敵」という言葉が頻出しますが、それはいずれも、源平のどちらかの武士が勅命や院宣をかかげて戦う時の追討の対象をさすものです。そうした際に思い起こされるのが、2018年夏の軍記・語り物研究会の大会での上横手雅敬氏の講演(「「たけき者」の群像」、8月23日、於立教大学池袋キャンパス)です。そこで氏は、ご自身が、軍事政権を樹立した頼朝を朝敵だと考えてきたことを見直されました。また、近年、『吾妻鏡』などに見られる頼朝の、天皇家の人々を傷つけることやその結果としてもたらされることを畏怖する歴史観が注目されています(元木泰雄『源頼朝』中公新書、2019年など)。

2. 為朝の評価をめぐって
 ここ二十年間の『保元物語』研究においても、為朝評価が一つのポイントであり、また、諸本間の異同を考える際の重要な視点でもありました。史実としては戦闘というほどの戦闘がなかった保元の乱を物語るために、為朝の活躍が創作されたとも言える『保元物語』を取り扱う研究においては、作者の叙述意識が集約する人物であるからだと思われます。そして、その為朝をどう評価するのかという点においても王権との関係ということが常に意識されてきたように思います。その間の事情については、原水民樹氏が正確にまとめていらっしゃいます(「『保元物語』の生成と変容の場―研究史展望に立って」『日本文学』58、2009年7月)。氏は、為朝の形象がどのようにとらえられてきたのかを、「理想的武人」(冨倉徳次郎)、「反権力的な属性」(永積安明)、「物語(半井本)の意志としての理想的武人という資格付与、反面、悪行人としての相貌をも持つ、物語描写の割れ」(栃木孝惟)、「公権を渇仰しながら遂に逆賊で終わろうとしている武人」(野中哲照)、「為朝の反権力的姿勢は、王権に奉仕するものでしかない」(大津雄一)と整理した上で、半井本においては、為朝が「王権から自由になりえていない」一方、「王権をないがしろにする」発言もあることを指摘、栃木氏の指摘する「割れ」の要因を半井本の形成のあり方(複数の親本を適宜混合したか)に求めています。
 こうした議論は主に、半井本で色濃く書き込まれた為朝像に関するものなのであり、その結果として、『保元物語』研究は半井本研究が主流になりつつあるように見えますが、金刀比羅本をはじめとする四類本での為朝については、そうした形象がそぎ落とされ、原水氏の表現をお借りするならば、「忠・孝に厚い良識有る義士」として描かれているという見方が多いように見受けられます。ただ、同じく主要登場人物である崇徳院も天皇家の一員であるという立場に立つならば、為朝が崇徳院の為に戦ったことを反逆者として見ていいのかという問題も浮上するわけで、その点、原田敦史氏が、渡島後の記事を持たない四類本にあっては、為朝は院宣という権威のもとで戦う存在であると強調されていると述べておられること(「四類本『保元物語』論」(『岐阜大学国語国文』42号、2017年3月)は、四類本の終わり方の問題としても、また、『保元物語』に内在する王権の問題としても注目すべきではないかと考えています。四類本では、崇徳院が西行によって鎮魂されたことを述べた後で、「逆徒悉く退散し、王臣皆身を合はす。希代不思議の義兵なり」としますが、この「義兵」に為朝を含めていいのかどうか疑問は残るものの、やはり四類本においても「武者」と相対するものとして描かれる王権というものが、崇徳院の悲劇のみならず重要なポイントであるということは言えそうです。
 このように、本講座第一巻では、「王権と武士」という観点においても様々な発言がなされるのではないかと期待しております。

3. 軍記文学にとっての「洗練」とは
 次に、『保元物語』の諸本研究について述べたいと思います。野中哲照氏が、様々なものの価値観が目まぐるしく変動していった中で、『平家物語』諸本の流動なども、振れ幅が大きすぎて全体の把握が困難な中、『保元物語』の諸本流動は比較的コンパクトであることから、その展開を追うことで、他の軍記の展開の過程の考察にも資する可能性を指摘なさっておられる(「『保元物語』 諸本論の可能性」、小林保治編『中世文学の回廊』 勉誠出版、2008年)のは重要な指摘だと思います。そして、そうした『保元物語』の諸本研究にあって、私が注目しているのが、本文が「洗練」されていくということはどういうことか、という問題です。『平家物語』にあっては、構成や文章が最も洗練されているのは覚一本であり、『保元物語』でそれに相当するのが四類本であるというのが一般的な見方です。古態本とされる半井本の、例えば為朝についての重複ともとれる記述、政道論的な書き込みの多い鎌倉本、また京図本の、混乱しているとも思われる錯簡や重複記事に比べて、記事が整理されていることは確かです。
 四類本の、他の諸本と比べた時の最大の特徴は、言うまでもなく、為朝の渡島譚を削った点です。それはもちろん従来言われているように、四類本において為朝に関する記述が、半井本に比べて整理されている一つの証左とも言え、それも「洗練」ととらえられていると考えられます。
 先述した原田氏のように、四類本全体では、為朝こそが「朝家の御宝」になる可能性を孕みつつ終わるのだと見ることもできますが、一方で、渡島譚の持つ荒唐無稽とも言える内容も気になるところです。小学館の新編日本古典文学全集の『保元物語』は、四類本の一つの宝徳本を底本としていますので、渡島譚を置かないわけですが、それに関して「この世で起こり得たことどもを語った」これまでの内容が、「歴史を題材とする物語として受けとめられる」ものであるのに対し、為朝の鬼島渡りの話には、「この世であるはずのない内容」が含まれていると判断し、「この物語としては、本来的なかたりではない」と判断した結果だと、頭注で指摘します。
 この「この世にあるはずのない内容」というのは、もちろん為朝が大島に流されただけではなく、そこからさらに奥の鬼の島に渡り、その島の鬼達を従え、年貢を収めさせ、その担保として鬼の子を連れ帰る、という内容を言います。この新編日本古典文学全集の頭注の指摘は、歴史叙述としての『保元物語』の「洗練」という意味で、重要なのではないかと考えています。
 これは仮説に過ぎませんし、今回谷口さんが指摘されている、『平治物語』の四類本に室町文芸としての特徴が見られるということと反対の見方のようですが、鎌倉時代にさかんに作られた説話集、そしてそれが御伽草子につながっていくという流れと関係があるのではないかと考えているのです。
 例えば、建長六年(1254)に完成したとされる、橘成季編の『古今著聞集』の巻十七・五九九話は、伊豆国奥島の船に乗った鬼がやってきて、島人との間で一悶着をおこし、再び船で去って行った、という話があります。話の内容は為朝のものとは逆とも言えますが、この話が承安二年(1172)のこととされていることも含め、気になるのです。こうした話が説話の中に取り込まれていくに従って、為朝の渡島譚が歴史叙述としての『保元物語』にはそぐわないと判断されて切り離されていった可能性はないか。御伽草子の中で、義経の北方への冒険譚がさかんに語られていたことが思い浮かびます。そう考えますと、四類本の為朝の後日譚を捨てた判断は、歴史叙述としての洗練と言えるのかもしれません。
 しかし、一方で、『平家物語』の場合とは違って、近世に出版された流布本は、四類本ではなく一類本である半井本に近いのです。為朝に関する記述をのぞけば、乱の顛末などについても半井本の方がすっきりまとめられている印象があります。為朝を重視するからこそ渡島譚が必要だったと見るならば、半井本にこそ「完成」を見る見方も成立するかもしれません。
 このように、『保元物語』の流動の経緯は、軍記文学の歴史叙述としての「洗練」、文芸としての「洗練」、あるいは「古態」の意味を問いかけてくるものと考えています。

4. その他の課題
 そのほか、今後の課題として考えていることを列挙して終わりたいと思います。一つは、四類本とひとくくりされる諸本の間の異同の調査です。例えば、冒頭を「中頃」で始めるか、「近頃」で語り出すかの違い、二巻仕立てにするか三巻仕立てにするかの違い、その両者の相関関係をどう考えるか。二点目は、『平家物語』の成立、流布の状況との関連や相互の影響についてです。特に、人物造型における相関関係や、逆に『平家物語』における崇徳院の描かれ方の実態にも関心があります。
 すぐに結論が出そうにない、大きなことばかり申し上げましたが、このシリーズに関わらせて頂けたことをきっかけに、さらに取り組んで行けたらと思います。

[参考]『保元物語』の諸本分類について
永積安明氏による分類を基本に述べると、以下の通り。
 第一類●文保・半井本系統の諸本
   ※ 文保本は、文保二年(1318)の書写奥書を持ち、現存本では最古だが、中巻一冊のみ。半井本は、書写年代は江戸時代だが、文保本と同系統と認められることから、鎌倉末期の内容であると判断されている。
 第二類●鎌倉本(ただし、中巻は欠)
   ※ 犬井喜壽氏、原水民樹氏による分類では、「康富本」と呼ぶ。
 第三類●京図本系統の諸本 
   ※ 犬井分類では、「根津本」と呼ぶ。原水分類では四番目に位置づける。
 第四類●金刀本系統の諸本
   ※ 犬井分類、原水分類では、「宝徳本系統」とし、宝徳三年(1451)の書写奥書を持つ陽明文庫蔵宝徳本をこの系統の代表本文と位置づける。
   ※ 原水分類では、第三番目に挙げる。
   ※ 学習院大学図書館蔵九条家旧蔵本もこの系統に属す。

※ 以降、永積分類では、第五類(京師本系統の諸本)、第六類(正木本系統の諸本)、第七類(杉原本)、第八類(流布本系統の諸本)、第九類(その他の諸本)とするが、これらの系統名などについても、犬井分類、原水分類では違いがある。