軍記物語講座によせて(6)
中村文「頼政の恋歌一首―『頼政集』五〇七番歌の背景 ―」

軍記物語研究にまつわる文章の連載、第6回は、日本女子大学文学部非常勤講師の中村文氏です。
武人としてだけでなく、歌人としてもその力量を認められていた平安末期の武将、源頼政。「陸奥の黄金」をめぐる歌を取り上げて、頼政の表現上の工夫や、時代状況との関わりを探ります。


頼政の恋歌一首―『頼政集』五〇七番歌の背景―

中村 文 

1. 歌人としての源頼政
 『平家物語』巻四において以仁王と共に平家討伐の兵を挙げ、宇治平等院での戦いに敗れていかにも武人らしい壮絶な最期を遂げる源頼政は、歌人としても著名な人物であった。その力量が高く評価されていたことは、同時代の和歌の権威であった藤原俊成の、

今の世には、頼政こそいみじき上手なれ。彼だに座にあれば、目のかけられて、彼に事一つせられぬと覚ゆるなり。(『無名抄』「俊成入道の物語」)

の評言にもうかがえる。頼政が和歌の会に加わっていると、同座の者が「してやられた」と感じるような、興趣に満ちた工夫が凝らされた作を、必ず詠じてみせたというのである。

 俊成と同じく、平安末期の歌壇を領導した俊恵もまた、歌人頼政について、

頼政卿はいみじかりける歌仙なり。心の底まで歌になりかへりて、常にこれを忘れず心にかけつつ、鳥の一声鳴き、風のそそと吹くにも、まして花の散り葉の落ち、月の出で入り、雨・雪などの降るにつけても、立ち居起き臥しに風情をめぐらさずといふことなし。まことに秀歌の出で来るも理とぞ覚え侍りし。(同「頼政歌道に好ける事」)

と述べている。この箇所の「風情」は、四季美の情趣を指してはいない。各季の景物を、どのような場面構成で、どんな要素と取り合わせ、どういう言葉を用いて表現したら、一座の人々の心を惹きつけ、面白いと思わせ、喝采を呼ぶ歌になるのか、そうした文芸上の工夫―〈趣向〉―を、頼政は日常生活の中で、折々の景物に触発されながら、凝らすことを常に忘れなかったのである。

 小規模ではあっても武士団を率い、軍事・警察活動を担う一方で、貴族社会に地歩を築くことを志向する、「京武者」の家柄に生まれた頼政にとって、和歌は公卿殿上人と交わり、社会的な地位を上昇させるために必須なパスポートでもあったが、立身の手段などという枠組をはるかに越えた執着と修練により、頼政は多くの秀歌を得ることとなった。

深山木のその梢とも見えざりし桜は花にあらはれにけり

は、『詞花集』に採られた歌で、『平家物語』巻第一「御輿振」段にも見える。神輿を奉じて強訴した比叡山の大衆が、頼政の守護する内裏北門に押し寄せた際、大衆の一人が頼政の歌才を称揚して右歌を示し、こんなに優れた歌を詠む風流な人物に恥辱を与えるべきではないと演説すると、数千人の大衆は皆「もっとももっとも」と賛同したという。

 大衆の心を動かした右の歌は、冬の間、深山で他の木々に交じってそれとは判別できなかった桜が、春になり盛りに咲くことでその存在が明確に浮かび上がった情景を描く。従来の桜歌にはなかった発想を、やや生硬な言葉遣いで叙しつつ、他の種の木々を圧して白く絢爛に咲き誇る山桜の映像を想起させて印象鮮明な一首になっており、頼政が作歌をめぐり日々凝らしていた言語上の工夫が、いかなるものであったかをよく伝えている。

2. 頼政歌の難しさ
 頼政には自撰の家集(個人の歌を集めた集)が残る。六八七首を収める大部な集で、歌人としての足跡のみならず、武家貴族としての頼政の意識を辿る上でも重要な作品なのだが、その読解には大きな障壁がある。『頼政集』の写本は現在三十数本の伝存が確認できるが、大きく二つに分かれる系統のそれぞれで本文が相当に異なっていて、どちらの本文に就くべきか、判断が難しいのである。新奇で面白味のある歌を詠み出すために、頼政がどんな趣向を凝らしたのかを探るためには、まず、本文の確定から始めなければならない。今ここで実際に、特に大きな異同を持つ恋歌(五〇七番歌)を取り上げ、本文を検討した上で、頼政の工夫や時代性との関わりを探る作業を行ってみたい。

 当該歌は、それぞれの系統中の一本で示すと次のようになる。

  恋遠所人 同
みちのくのかねをはこひて城なりしいもかなまりの忘られぬ哉
               (Ⅰ類、宮内庁書陵部蔵御所本)

  遠所恋人 同
陸奥のかねをはこひて掘まなし妹かなまりの忘られぬかな
               (Ⅱ類、ノートルダム清心女子大学蔵本)

 初句「陸奥の」と下句については異同がない。この歌は、「遠くに居る相手を恋しく思う」という趣旨を詠むことが求められた題詠歌で、今は京都に居る作中の主人公が、かつて陸奥で会った女性(妹)について、その「訛り」を恋しく思い出している内容を詠んでいる。

 問題は、二句「かねをはこひて」をどう解するかという点と、三句の本文をどう確定するかである。

 陸奥は『万葉集』歌に、

天皇〈すめろき〉の御代〈みよ〉栄えむと東〈あづま〉なる陸奥山〈みちのくやま〉に金〈くがね〉花咲く
               (万葉集・巻十八・四〇九七・家持)

とあるように、古来、黄金を産出することで有名であるから、「かね」が「金」を指すことは間違いないが、二句全体は濁点の付け方によって、「金をはこびて」「金をば恋ひて」の二通りの本文を作りうる。写本においても、Ⅰ類本の佐賀大学本は「かねをはこ[運]ひて」と振り漢字を付して「金を運びて」の本文を支持し、Ⅱ類本の国会図書館本では「かねをは恋て」と「金をば恋ひて」の本文を明示している。「金を運びて」ならば、作中人物が陸奥に産出した金を京都まで運んだことを語る。一方、「金をば恋ひて」ならば、京にあって陸奥の黄金にはるかな憧れを抱く作中人物にとって、忘れられず恋しい対象は陸奥で会った女性の「訛〈なま〉り」であったという文脈を作る。いずれの場合も、金属として価値の高い「金」と高くはない「鉛〈なまり〉」との縁語上の対比が一首に面白味を添える。「金」ではなく「妹」が忘れ難いとする構想と関連させる後者の方が、趣向を一層際立たせるとは言えるが、どちらの解も成り立ちうる。

 では、三句はどちらの類を妥当な本文とすべきだろうか。当該箇所について、稿者が現在までに確認しえた『頼政集』三十本の内、「城なりし」(平仮名表記の伝本は一本もない)の本文を持つ伝本は十五本、「掘まなし」「ほりなまし」等の本文は九本である。注目すべきは、伝本数の多寡ではなく、その分布である。「城なりし」の本文は、Ⅰ類本だけでなくⅡ類本にも見出せるからである。『頼政集』はほとんどの伝本が江戸期の書写だが、室町期に遡る写と推定される穂久邇文庫本が「城なりし」の本文を持つ。また、『新編国歌大観』所収「頼政集」の底本となった書陵部蔵松浦静山旧蔵本も室町期の写本だが、当該箇所は「誠なりし」となっており、「城なりし」を誤写したものと考えられる。

 また、書陵部蔵桂宮本や国立歴史民俗博物館蔵高松宮旧蔵本は、Ⅰ類本の中では伝写の行き止まりに位置する伝本群と考えうるいくつかの特徴を有するが、当該箇所は「掘なりし」であり、「城」が「掘」に誤写されていったことを想察させるのである。

 以上を総合すると、五〇七番歌の本文はⅠ類本に従って、

陸奥の金を運びて城なりし妹が訛りの忘られぬかな

と整定すべきと考えられる。

3. 頼政と陸奥
 五〇七番歌は「恋遠所人」題歌だが、同じ歌題による他歌人の詠も数首残っている。

  恋遠所人
足柄の山のあなたに妹を置きてせきもあへぬは涙なりける
               (禅林瘀葉集・七九、藤原資隆)

  同院の九月の御供花の時、遠き人を恋ふといふこころを
おなじ世にいきの松とは聞きながら心づくしの中ぞ悲しき
               (長秋詠藻・三五七、藤原俊成)

 両首ともに、「足柄」「生〈いき〉の松原」といった、京都から離れた場所の名(歌枕)により、恋うる対象たる女性が「遠所」にあることを示している。また、前者の藤原資隆の歌では、「(足柄の)関」に「(涙を)堰き止められない」を掛け、後者の藤原俊成の詠では、地名に「生きて待つ」を掛け、その「生の松原」の所在する「筑紫」に掛けて「心尽くしの(物思いの限りを尽くす意)」関係であることを表現していて、歌枕を用いた趣向を眼目とする点も共通している。

 これに対して、頼政の歌では、「陸奥」の地名が単に女性の居る場所を示したり、趣向の結節点となるに留まらず、陸奥から京まで黄金を運んだ作中人物が、陸奥で出会った女性を、その地域色豊かな言語と共に恋しく思い出すという、ストーリー性に富んだ場面構想を支える重要な要素として機能している。五〇七番歌には「金」と「鉛」の対比や、「都まで運んだのは黄金」だが「都まで記憶に残ったのは東北女性」だとする対比の面白さが盛り込まれるが、和歌作品としての興趣はそれらの趣向にだけ集約されているわけではない。頼政の意図は、言葉を組み合わせて、一首の中に息づく人とそれを囲繞する世界とを浮かび上がらせることにあったと言えよう。

 では、陸奥から京都まで黄金を運んだ人物を恋歌の主人公に据えるというような、従来の詠歌史にはない斬新な着想は、どのような背景から得られたのだろうか。

 「陸奥の金を都に運んだ人物」と言えば、想起されるのは、源義経を奥州藤原氏の秀衡の許に届けた「金売り吉次」である。この「金商人」について、九条家旧蔵本『平治物語』には次のような記述が見える(日下力校注『新日本古典文学大系』に拠る)。

かの金商人は、元は公家の青侍にて有しが、身貧〈まづしく〉、為方〈せんかた〉なさに、始めて商人になりけるが、今度、九郎冠者に付て、また、侍になされ、窪弥太郎とぞ申ける。(「頼朝義兵を挙げらるる事并びに平家退治の事」)

 金商人は元来、貴族に仕える階層に属していたのであり、頼政にとっても縁遠い存在ではなかったのである。

 さらに、義経の周辺に頼政と関わりの深い人物がいたことについては、保立道久『義経の登場』(日本放送出版協会、2004年)が詳しく言及している。『平治物語』には、鞍馬寺に身を置く沙那王(義経)の願いを受けて寺外へと伴った「深栖〈ふかす〉三郎光重が子」の「陵助〈みささぎのすけ〉重頼」は「兵庫頭頼政とこそ昵候〈むつびさふら〉」う者であったと記される。深栖光重は頼政と同族の清和源氏で、頼政の父仲正の養子となり(尊卑分脈)、頼政とは兄弟の間柄であった。頼政には光重の父光信と交わした贈答歌も残る(頼政集・六八一・六八二)。

 『平治物語』に見える「陵助重頼」は、『尊卑分脈』に光重の子として記載される「頼重」であろう。同項には「諸陵頭 皇后宮侍長 堀三郎」と注されるが、注意されるのは、前掲の『平治物語』の記事に見える「窪弥太郎」が、古活字本では「堀弥太郎と申は金商人也」と記されることで、頼政の縁者が堀家を介して金商人と繋がっていた可能性がある。

 また、『尊卑分脈』では光信男としての「光重」に「出羽蔵人」と注される。光信とその父光国、光重の弟光長にも「出羽守」の注が見える。光国以外は出羽国司となった記録が見出せないのだが、この一族は光国や、さらにその父国房の任出羽守をきっかけとして、北方に勢力を伸ばしていたのではないだろうか。『平治物語』では、重頼は義経を上総国まで同道するに留まるのだが、さらに北にまで手引きすることも可能だったと推定される。京都と奥羽地方とを往還する人物は、頼政のすぐ身近に存在したのである。

 「城」という、和歌表現としては用いられる例のほとんどない語についても触れておきたい。中世における「城」が、現在我々がイメージする城郭を意味しないことについては、歴史学が次々に解き明かしつつあり、むしろ、各地方における有力者が本拠とする場や居館を指す語とされている(斎藤慎一『中世武士の城』吉川弘文館、2006年、菊池紳一「『玉葉』に見える「城」について―兼実の城認識」小原仁編『変革期の社会と九条兼実』勉誠出版、2018年)。五〇七番歌は「陸奥の黄金」を京に運んだ男が主人公であるから、「城」は平泉にあると見るのが自然である。「洛城」などと言う場合と同様に、奥州藤原氏三代の「王国」として都市を完成しつつあった「平泉の街全体」を「城」と表現したとも考えられるが、藤原氏の宏壮な居館、ないしは、都から下って奥州藤原氏の政権内部に食い入り権勢を誇った藤原基成の一族の邸を想定してみたい。頼政は基成の甥で、自身も陸奥守を勤めた藤原隆親〈たかちか〉が催した歌合に参じており、都市としての平泉の詳細も聞き知っていた可能性が高い。奥州政権との黄金をめぐる交渉に赴いた京男が北国の宏壮な邸で巡り合ったのは、独特な地域イントネーションにエキゾチシズムを感じさせる、それでいて京風の優雅さをも持つ女性だったのではあるまいか。

 この歌が詠まれたのは、後白河院主催の供花会歌会と推定される。同会は、毎年五月と九月に院御所で催された。頼政歌の詠出年時は不明だが、おそらくこれと相前後する時期、後白河院政期の嘉応二年(1170)に奥州藤原氏三代目の秀衡が鎮守府将軍に任ぜられた。鎮守府将軍の職務の一つに、奥州金の貢進があったと言う(斉藤利男『平泉 北方王国の夢』講談社、2014年)。つまり、後白河院の御前で詠まれた頼政の五〇七番歌は、単によく構想され趣向の練り上げられた興趣ある作というだけでなく、時代や政治状況を敏感に反映した作であって、その場に集う後白河院近臣達に大いに受けることをも狙って詠み出された面を持つと思われるのである。


中村 文(なかむら・あや)
立教大学大学院文学研究科博士課程後期課程満期退学。
日本女子大学文学部非常勤講師。
著書に、『後白河院時代歌人伝の研究』(笠間書院、2005年)、編著書に、中村文編『歌人源頼政とその周辺』(青簡舎、2019年)、共著書に、頼政集輪読会『頼政集新注』上・中・下(青簡舎、2011、2014、2016年)など。


松尾葦江編「軍記物語講座」全4巻

  第1巻『武者の世が始まる』 2019年12月刊予定

  第2巻『無常の鐘声―平家物語』 2020年 5月刊予定

  第3巻『平和の世は来るか―太平記』 2019年10月刊 本体7,000円

  第4巻『乱世を語りつぐ』 2020年 3月刊予定


軍記物語講座によせて
  5. 藏中さやか「和歌を詠む赤松教康―嘉吉の乱関係軍記、寸描―」
  4. 渡邉裕美子「みちのくの歌—白河関までの距離感—」
  3. 石川透「軍記物語とその絵画化」
  2. 長坂成行「『太平記』書写流伝関係未詳人物抄」
  1. 村上學「国文学研究が肉体労働であったころ」