軍記物語講座によせて(8)
木下華子「遁世者と乱世」

軍記物語研究にまつわる文章の連載、第8回は、東京大学文学部准教授の木下華子氏です。
遁世者―政事・戦乱から遠く離れた存在―は、戦の世をどう見たのでしょうか。戦を描かなかった長明と、戦を詠んだ西行。二人の視線から探ります。


遁世者と乱世

木下 華子 

1. はじめに
 平安時代末期、保元元年(1156)7月の保元の乱を境に、「武者ノ世」(愚管抄)が到来した。3年後の平治元年(1159)には平治の乱が起こり、平氏の全盛期を挟んだ後、治承4年(1180)以降は治承・寿永の内乱と言われる戦乱が全国的に展開することになる。この内乱のうちいわゆる源平の合戦が終息したのは、平氏一門が滅ぼされた元暦2年(1185)の壇ノ浦の合戦である。しかし、その後も、勝者である源氏内で頼朝と義経の対立が起こり、戦乱の火種はくすぶり続けた。建久元年(1190)の奥州藤原氏の滅亡によって、10年近くに及んだ内乱は終焉し、頼朝による全国平定が達成されることになる。

 このような乱世を叙事的に記すのが軍記物語であり、上記の戦乱を素材とする作品が『保元物語』『平治物語』『平家物語』である。大雑把なつかみ方で恐縮だが、これらの作品が主軸とするのは戦乱の世における政事の様相、武士たちの戦闘、それに関わる人々の動向と心情と言えるだろうか。そして、この時期、文学史上には軍記物語が取材する政事や戦闘とは対極的な立場にある人々──遁世者・隠者──が存在した。中世初頭の代表格としては、西行・長明の名が挙げられようか。遁世者たちは、出家の後も寺院に身を置かず、俗世の喧噪を離れたところに草庵を結んで仏道修行の生活を営むが、そのような彼らも乱世を生きる同時代人である。政事・戦乱から遠く離れた存在は、戦の世をどう見たのか。彼らの叙述に分け入ることで、少し別の角度から、乱世を見る視線を掬い取ってみたい。

2. 書かれない戦──『方丈記』
 鴨長明(1155頃~1216)を例に取ってみよう。その著作である『方丈記』は、治承・寿永の内乱終結から約20年後の建暦2年(1212)に成立したものであり、平安末期に起きた5つの災害を記す「五大災厄」と呼ばれる箇所を有す。その内容は、以下のようになる。

 ①安元の大火=安元3年(1177)4月28日、平安京の大部分を焼亡させた大火。
 ②治承の辻風=治承4年(1180)4月29日に起きた辻風(=竜巻)。
 ③福原遷都=治承4年(1180)6月2日から11月26日にかけて行われた都遷り。
 ④養和の飢饉=養和元年(1181)春頃から翌年の夏頃まで続いた全国的な大飢饉。
 ⑤元暦の大地震=元暦2年(1185)7月9日に起きた大地震とその後の余震。

 五大災厄は、ちょうど治承・寿永の内乱の時期と重なる時期のものである。しかし、『方丈記』には政事も戦乱も現れることはない。

 最も顕著な例は、③福原遷都だろう。治承4年5月に起きた以仁王と源頼政の反乱の後、平清盛は安徳天皇・高倉上皇・後白河法皇の福原臨幸を実行する。しかし、その後の新都造営は思うに任せず、8月には源頼朝、9月には源義仲が兵を挙げ、世の反発も大きくなる中、11月には平安京への還都が決定した。いわば平氏による人災が福原遷都とも言えるのだが、『方丈記』はそのような動向を明記しない。叙述されるのは遷都によって動かされ破壊される人と住処の様相、すなわち「軒ヲアラソヒシ人ノ住マイ」が「日ヲ経ツツ荒レユク」中で「家ハ壊〈こぼ〉タレテ淀河ニ浮カビ、地ハ眼ノ前ニ畠トナル」様、「人ノ心」が「皆アラタマル」様である。

 ⑤元暦の大地震にも同様のことが言える。『方丈記』は①~④までの災害について、「安元」「治承」「養和」という元号を記すことで発生年時を明示するが、この地震に対してのみ、「マタ同ジコロカトヨ」(養和の飢饉と同じ頃だったか)と年時を朧化する。「元暦」という元号が省筆された理由は、同時代、「寿永元暦」「元暦」が源平の合戦や平家の滅亡、時代の画期を象徴する語として、人々の記憶に刻み込まれ、共有されていたことにあろう。長明は、「元暦」の語を用いずに時間を朧化することで、戦の記憶を作品から退けるという操作を行ったのである[注1]

 つまり、長明は乱世のただ中を生きた記憶を有していても、『方丈記』においては政事や戦乱を言葉で詳述するという姿勢を取っていないと言えようか。その理由は、現実から目を背けているということではなく、作品のジャンル(領域)にある。『方丈記』は、あくまでも家居の記であって、歴史を語ることを意図していない。つまり、平安末期の動乱を語る作品ではないのだ。そのような意味では、私家集『鴨長明集』、歌論・歌学書『無名抄』、仏教説話集『発心集』も同様である。遁世者として生きた彼が乱世をどう見たか、それをうかがうことのできる媒体は残されていない。つまり、戦乱は書き記されなかったのである。

[注1] 木下「災害を記すこと──『方丈記』「元暦の大地震」について」(『日本文学研究ジャーナル』13号、2020年3月)

3. 地獄絵としての乱世(1)──長明
 乱世に対する長明の視線をあぶり出すことは難しい。しかし、『発心集』にはその視線を看取できる説話が収められている。慶安4年板本巻5-12「乞児物語事」(神宮文庫本では巻5-7)の以下の箇所である。

又、或人云、「治承ノ比、世中乱レテ人多ク亡ビ失セ侍リシ時、カタキノ方ノ人ヲ捕ヘテ、頸ヲ切リニ出デマカルトテノノシリアヘルヲ見レバ、コトヨロシキ者ニコソ、サスガニ由アリテ見ユルヲ、情ケナクユユシゲニシテ、追ヰ立チテ行ク。地獄絵ニカケル鬼、人ニコトナラズ『アナ心憂〈こころう〉。ヨモ現心〈うつしごころ〉アラジ』トアハレニイトホシク見ユル程ニ、…(中略)…ハカナク悲シミアヘリ」。(実線部は、神宮文庫本の本文では「サナガラ地獄ヲ絵ニ書〈かけ〉ル罪人ニ異ナラズ」となる)

 治承年間(1177~81)は、治承・寿永の内乱の始まりの時期である。敵方の捕虜が斬首のために引き立てられて行く様子が、地獄絵に描かれた鬼や人に喩えられている(実線部)。地獄絵は六道絵の一つである。六道絵は、現世に生をうけたものが因果応報によって輪廻転生を繰り返す六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)の様相を描くものだが、地獄絵は、そのうちの地獄を図絵したもので、六道絵の中でも多く描かれたらしい。ここでは、戦乱の折に見た一つの景が、「或人」の中に地獄絵が現世に再現したものとして記憶されたこと、地獄絵のごとき状況に対して「心憂」「アハレ」「悲シミ」(点線部)という慨嘆が導き出されたことが読み取れよう。「或人」からの伝聞ではあるが、それが『発心集』に書き留められたことは、長明の視線が「或人」のそれに寄り添い、共有したことを意味するのではないか[注2]

 戦乱の様は叙述されず、「世中乱レテ人多ク亡ビ失セ侍リシ時」と、結果として失われる多くの人身に焦点を結ぶ筆致である。彼が見た乱世はまさしく地獄絵であり、そこに哀憐を伴った感慨をおぼえざるを得ないものだった。わずかな痕跡ではあるが、あながち無理な想定でもないだろう。

[注2] 木下「「世ノ不思議」への視線」(『鴨長明研究──表現の基層へ』、勉誠出版、2015年)

4. 地獄絵としての乱世(2)──西行
 実は、もう一人の遁世者・西行(1118〜1190)も、地獄絵に関連付けるようにして戦の記憶を書き留めている。西行の家集の一つに『山家集』の続編として晩年に編まれたかと思われる『聞書集』があるが、この中に「地獄絵を見て」と題する連作27首が収められている。その連作に導かれるように直後に置かれたのが、治承・寿永の内乱を詠む以下の3首である。

世の中に武者起こりて、西東北南、いくさならぬ所無し、うち続き人の死ぬる数聞く夥し、まこととも覚えぬ程なり、こは何事の争ひぞや、あはれなる事のさまかなと覚えて

死出の山越ゆる絶え間はあらじかし亡くなる人の数続きつつ(聞書集・225)

武者のかぎり群れて死出の山越ゆらん、山立〈やまだち〉と申す怖れはあらじかしと、この世ならば頼もしくぞや、宇治のいくさかとよ、馬筏とかやにて渡りたりけりと聞えしこと、思ひ出でられて

沈むなる死出の山川みなぎりて馬筏もやかなはざるらん(同・226)

木曽と申す武者死に侍りにけりな

木曽人は海のいかりをしづめかねて死出の山にも入りにけるかな(同・227)

 木曽義仲の死に接した227番歌をはじめとして注目度の高い詠作であるが、西行の視線は戦乱の末に失われる多くの死者(実線部)に置かれており、それに対して「あはれ」(点線部)と慨嘆する。先に見た長明の視線と同じ軌跡をたどっているのではなかろうか。

 この3首と直前の「地獄絵を見て」27首は構想上の連続性を有することが先行研究で指摘されているが[注3]、この27首に繰り返し用いられるのが「憂し」「あはれ」「悲し」という心情語である[注4]。「憂し」は4例、「あはれ」は「あはれむ」「あはれみ」を含めると4例、「悲し(悲しみ・悲しさ・悲しむ)」は8例を見出せる[注5]。以下はその一端である。

見るも憂しいかにかすべき我が心かかる報いの罪やありける(聞書集・198)

あはれあはれかかる憂き目を見る見るは何とて誰も世にまぎるらん(同・199)

一つ身をあまたに風の吹き切りて炎になすも悲しかりけり(同・206)

何よりは舌抜く苦こそ悲しけれ思ふことをも言はせじのはた(同・207)

 王朝期の清少納言は、12月の仏名の翌日、地獄絵の御屏風を見ることを拒み、「ゆゆしういみじき事限りなし」と小部屋に隠れ臥した(枕草子・77段)。地獄絵に対して彼女が抱いたのは「ゆゆし」、気味が悪いという感情である。和泉式部が地獄絵を見て詠んだ歌は、「あさましや剣の枝のたわむまでこは何のみのなれるなるらん」(金葉集・雑下・644)であり、そこに託された感情は「あさまし」、あきれ驚くというものだった。

 これらの対象に距離を取る・突き放す感情と比較すると、西行詠の「憂し」「あはれ」「悲し」は、地獄絵の景とそこにまつわる因果応報の罪を自らのものとして深く自省・自問するものだろう[注6]。そのような流れに接続する形で置かれた225番歌は、戦乱の世と夥しい死者に対して「あはれ」との心情を示した。西行もまた、乱世を地獄絵と見る視線を有し、それを我が身に引き受けて慨嘆していたのではなかろうか。

[注3] 「地獄絵を見て」の連作と225~227番歌に対して構想の連続性を見る説に、中西満義「「地獄絵を見て」連作について──西行の罪業意識を中心に──」(『上田女子短期大学紀要』11巻、1988年3月)や宇津木言行「海賊・山賊の歌──西行『聞書集』から──」(『日本文学』52巻2号、2003年2月)がある。
[注4] これらの語に着目する先行研究に、石破洋「地獄絵と文学──西行の連作「地獄ゑを見て」を中心に──」(『日本文学』24-10号、1975年10月)がある。
[注5] 詞書中の語も含む。また、199番歌の「あはれあはれ」は一語と数えた。
[注6] 西行の「地獄絵を見て」27首に自己凝視の視線を指摘するものとして、石破前掲論文(注4)、宮澤努「西行「地獄絵を見て」論」(『国文学研究』73号、1981年3月)、中西前掲論文(注3)などが挙げられる。

5. 終わりに
 乱世を地獄絵と見る視線は、その後、どのような展開をたどるのだろう。稿者はこの問いへの回答を用意できないが、西行の「地獄絵を見て」連作27首は、次の一首で閉じられる。

朝日にや結ぶ氷の苦は解けむ六の輪を聞くあか月の空(聞書集・224)

 地蔵菩薩は、地獄に入って衆生の苦しみを救う存在である。朝日に当たって解ける氷のように衆生の罪苦が消除され、地蔵の持つ錫杖の六つの輪の鳴る音が暁の空に響くと詠む当該歌は、地蔵菩薩の救済を予感させるものと捉えられてきた。

 地獄絵に対する西行の感慨が救済の予感をもって閉じられるのであれば、地獄絵さながらの乱世にも救いが訪れることが期待できるのではないか。そのような読みは、もちろん深読みに過ぎるだろう。憶測は慎まなければならないが、長明にせよ西行にせよ、乱世を地獄絵と見る視線、「心憂」く「あはれ」な「悲し」みを宿した眼差しの先には、救済への祈りがあった。そのように考える余地がいくばくかはあるように思う。

 


木下 華子(きのした・はなこ)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。
東京大学文学部准教授。
著書・論文に、『鴨長明研究──表現の基層へ』(勉誠出版、2015年)、「『源家長日記』と始発期の後鳥羽院像」(『国語と国文学』93-4号、2016年4月)、「道程を叙述する文体──『山家集』中国・四国関係歌群と『無名抄』から」(『西行学』8号、2017年8月)など。


松尾葦江編「軍記物語講座」全4巻

  第1巻『武者の世が始まる』 2020年1月刊 本体7,000円

  第2巻『無常の鐘声―平家物語』 2020年 5月刊予定

  第3巻『平和の世は来るか―太平記』 2019年10月刊 本体7,000円

  第4巻『乱世を語りつぐ』 2020年 3月刊予定


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