「軍記物語講座」によせて(7) 
堀川貴司「和漢混淆文をどう見るか」

軍記物語研究にまつわる文章の連載、第7回は、慶應義塾大学斯道文庫教授の堀川貴司氏です。
最近の国語学の研究動向から、和漢混淆文の生成モデルを見直します。その生成過程では「和と漢」のみならず、「雅と俗」の混淆も同時に起こっているのでは──新たな視点によって研究対象とする資料の広がりと可能性が示されます。


和漢混淆文をどう見るか

堀川 貴司 

1. はじめに
 軍記・説話という中世に花開いた文学ジャンルは、いずれも中古の漢文体作品に淵源を持つ(『将門記』あるいは『日本霊異記』などなど)ため、そこから何らかの文体上の飛躍が想定されるだろう。すなわち、中古末から中世初に起こった和漢混淆文の発達がその飛躍をもたらした、あるいはこれらのジャンルそのものが和漢混淆文の発達を促した、と説明されてきたと思う。

 軍記物語に関して専門外である稿者にこのようなテーマでの執筆依頼があったのも、漢文学研究の側からこの文体の意義を考察せよ、とのことなのであろう。しかし、軍記物語内部における意義については、既に北村昌幸氏の論「『太平記』の表現─方法としての和漢混淆文─」が本講座第三巻『平和の世は来るか 太平記』に収められ、和漢の対立や融合という内容的なものと文体とが連動している様を分析している。稿者も時代・ジャンルは異なるが、『奥の細道』において同様の操作が行われていることを指摘したことがある(「もう一つの『百人一首』―五山文学受容の一様相」松田隆美編『書物の来歴、読者の役割』(慶應義塾大学出版会、2013年)。

2. 成立に関する新たな仮説
 ここでは、近年の国語学における研究動向を稿者なりに紹介することで責を塞ぎたい。

 山本真吾氏の「「訓点特有語形」と和漢混淆文」(『文学・語学』226、2019年10月)は、和漢混淆文の研究史をふまえつつ、その成立に関して新たな仮説を提言している。以下、稿者なりに理解した同論文の要点を示そう。

 従来、和漢混淆文は、和文体と漢文訓読体(実際に訓読の形で書かれているのではなく、漢文に訓点が付されたものを、その訓点に従って読んだ場合に出現するはずの文体、という意味で考えるのが適切であろう)の接触・混合、さらに言えば、和文体への漢文訓読体特有語彙・語法の浸潤、という形で捉えられてきた。語彙レベルで言えば、漢語そのもの、および漢文訓読にしか用いられない和語(従来は漢文訓読語と呼ばれてきたもの、和文では「とく」「はやく」と言うのに対して漢文訓読では「すみやかに」と言う、といった類)が用いられることを、混淆の指標としている。この分析を大規模かつ精密に行った最新の成果として大川孔明氏の「和漢の対立から見た平安鎌倉時代の文学作品の文体類型」(『訓点語と訓点資料』139、2017年9月)がある。そこでは、国立国語研究所作成「日本語歴史コーパス」を利用し、『竹取物語』から『徒然草』までの代表的古典作品21点(『今昔物語集』は本朝仏法部と本朝世俗部を分けて考えるため、実際は22)を分析、その文体を5つのタイプに分類している。

 このような見方に対して、訓点特有語と呼ばれる語の意味や用法を細かく検討することで、新たな視点を提示できる、とするのが山本氏論の核心である。具体的には「くぐる」(上代は「くくる」)を取り上げて、

ア 漢文訓読における意味
イ 『万葉集』およびそれを受けた中古和歌での意味
ウ 延慶本『平家物語』等和漢混淆文に見える意味

の三つを検討、和漢混淆文における意味用法は漢文訓読におけるそれをそのまま継承していないことを明らかにした。その理由として以下のような経緯を想定している──そもそもこの語が日常語・俗語に属する性格を持っていて、万葉集(およびその影響下にある少数の和歌)には用いられたが、平安の和文からは排除された。しかし、幅広い内容を持つ漢文(漢籍・仏書)の訓読に際しては必要で、しかも漢文の文脈に応じてやや意味を変容させながら用いることもあった。中世の和漢混淆文には、訓読で変容させられた意味は継承されず、もともと日常語・俗語での意味がそのまま継承されたため、訓読語とのずれが生じた──。

 そのように見てくると、和漢混淆文におけるこの語の使用は、漢からの浸潤ではなく、それまで文献に現れてこなかった日常語・俗語の採用、という形で捉えられる、というものである。

 以上のような論を稿者なりに図式化してみよう。

 すなわち、従来和漢混淆文と呼ばれてきたものは、実際には和漢の混淆と雅俗の混淆とが同時に起こっていると見られるのである。

3. 和漢・雅俗モデル
 この見方をもう少し進めれば、次のような表が想定できよう。

 先ほどの新しい生成モデルは、和・雅の領域に漢・雅のみならず和・俗からも語彙等が浸潤して和漢混淆文が生成する、というものであった。しかし、もともと和・俗の世界こそが和文の本源であり、中古の和文体はその一部を特立させることで作られたと見ることもできる。これは、山本氏論と同じ『文学・語学』226号に掲載されている今野真二氏「上代の文体と表記体」において、仮名表記の成立と関わって、尾山慎氏の論(研究会の口頭発表資料)を引用する形で示唆されているものである。

 また、この表に新たに「漢・俗」を加えたのは、中古の言語生活を考える上で欠かせない文体であるからで、和・雅を除く三つは、相互に影響し合いつつ表現を豊かにしていったものと思われ、和漢混淆文の成立はそのような関係が最終的に和文にまで及んだものという捉え方も可能ではないかと思う。なお、この時期の、表記の相違を含めた文体のバラエティについては、三角洋一氏の『中世文学の達成』(若草書房、2017年)に詳しい。

 その三角氏論にも取り上げられているが、和漢混淆文成立の前段階、三つの文体の混淆を知る手がかりとしては、聞書の存在に注目したい。

4. 生成の場としての聞書
 仏教経典の講説、日本書紀の講説の聞書については、わずかながら平安時代までの資料が残る。また、院政期に現れる有職故実や漢文学に関わる聞書(『江談抄』『中外抄』『富家語』など)も、一見『平家物語』のような洗練された和漢混淆文とはほど遠いように見えて、和と漢、雅と俗が衝突する現場(対象テクストである漢・雅、筆記文体である漢・俗、講説文体に含まれる和・俗が交錯する場と考える)を記録した資料として重要ではなかろうか。

 中世後期には抄物という大量の資料があり、これは既に和漢混淆文が確立している時代ではあるものの、やはり現場では繰り返しそのような衝突が起きており、参考になろう。特に、後にまとめられたものではなく、講説の場での聞書そのものも数少ないながら残存している(堀川貴司『五山文学研究 資料と論考』笠間書院、2011年、所収「〔東坡詩聞書〕」など)ので、専門家の分析を待ちたい。

 もう一つの手がかりは『愚管抄』である。従来、梵和同一という思想的観点から注目されてはいるものの、和漢混淆文の研究対象としては取り上げられていないようであるが、雅俗という視点を加えれば、むしろ大胆な試みとして評価できる作品であろう。

 以上、国語学には全くの素人が、専門家の論文に刺激を受けて考えてみた憶説を述べた。文体というやっかいなものを考えるきっかけになれば幸いである。


堀川 貴司(ほりかわ・たかし)
東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。
慶應義塾大学附属研究所斯道文庫教授。
著書に、『書誌学入門 古典籍を見る・知る・読む』(勉誠出版、2010年)、『五山文学研究 資料と論考』(笠間書院、2011年)、『続 五山文学研究 資料と論考』(笠間書院、2015年)など。


松尾葦江編「軍記物語講座」全4巻

  第1巻『武者の世が始まる』 2019年12月刊予定

  第2巻『無常の鐘声―平家物語』 2020年 5月刊予定

  第3巻『平和の世は来るか―太平記』 2019年10月刊 本体7,000円

  第4巻『乱世を語りつぐ』 2020年 3月刊予定


軍記物語講座によせて
  6. 中村文「頼政の恋歌一首―『頼政集』五〇七番歌の背景 ―」
  5. 藏中さやか「和歌を詠む赤松教康―嘉吉の乱関係軍記、寸描―」
  4. 渡邉裕美子「みちのくの歌—白河関までの距離感—」

  3. 石川透「軍記物語とその絵画化」
  2. 長坂成行「『太平記』書写流伝関係未詳人物抄」
  1. 村上學「国文学研究が肉体労働であったころ」