「軍記物語講座」によせて(10) 
本井牧子「古状で読む義経・弁慶の生涯―判官物の古状型往来―」

軍記物語研究にまつわる文章の連載、第10回は、京都府立大学文学部准教授の本井牧子氏です。
誰もが知っている義経・弁慶の伝承。江戸時代には、浄瑠璃、歌舞伎といった芸能はもちろんのこと、教科書であった往来物を通して人々に親しまれていました。初学段階で触れる往来物が語る人物像は、イメージ形成の基盤となっていたかもしれません。書状形式の往来3点をとりあげ、近世期の義経をめぐる知の一角を探ります。


古状で読む義経・弁慶の生涯―判官物の古状型往来―

本井 牧子 

 義経と弁慶と聞いて、五条の橋の上で斬り合いをするイメージを思い浮かべる人は多いだろう。そのイメージの根底には、子どものころに読んだ絵本や、テレビのアニメーションなどの影響があるのではないだろうか。近代におけるそのイメージの始発点に巌谷小波の「牛若丸」(『日本昔噺』明治29年、博文館)があることはいうまでもない。「京の五条の橋の上」と歌い出す尋常小学唱歌「牛若丸」(明治44年、文部省)も、イメージ形成に一役買っているだろう。子どもの頃に接したイメージというのは、わたしたちの記憶の存外深いところに根をはっているものなのかもしれない。

 ここで前近代に目を転じてみると、江戸時代においても、多くの人々が幼少期に目にしたもののなかに、義経や弁慶の姿を見いだすことができる。初学者のための教科書とされた往来物には、古状型とよばれる、歴史上の人物によって書かれた書状を題材とするタイプのものがあり、そのなかに義経や弁慶によってしたためられたとされる(擬)古状も含まれているのである。これらの判官物とでもいうべき古状型往来は、さまざまな形態で版を重ね、明治期にいたるまで広く読まれつづけた。小文では、義経・弁慶にまつわる古状型往来をとりあげ、そこに描かれる伝承を検討し、近世における判官物の一隅をみてみることとしたい。

1. 『腰越状』・『義経含状』・『弁慶状』
 義経関連の主な古状型往来としては、『腰越状』、『義経含状』、『弁慶状』の三状を挙げることができる。これら三状は、『今川状』をはじめとする古状型往来を集めた『古状揃』に含まれるのをはじめ、さまざまなかたちで刊行されて、広範な流布をみた。

 まず、「腰越状」は、平家追討の後、兄頼朝の不興を被り鎌倉へ入ることを許されなかった義経が腰越でしたためたとされる書状であり、『吾妻鏡』をはじめ、『平家物語』、『義経記』、幸若舞曲『腰越』などに引かれてよく知られるものである。身の潔白と不遇とを訴える哀切な文章は、後の判官物にもたびたび摂取され、古典〈カノン〉としての位置を確立した。手習いのための手本としても、天正年間(1573〜92)の古写本が確認されており、キリシタン版『倭漢朗詠集』にも収められるなど、古状型往来のなかでも古いものとかんがえられている。

 『義経含状』については、その結構と文章とを幸若舞曲『含状』に求めるのが適当であろう。義経主従の最期を語る舞曲『含状』では、首実検の場で義経の首が銜〈くわ〉えていた書状が見いだされ、頼朝の前で披露される。その文章は、「腰越状」による部分が多いが、梶原景時父子の首を手向けることを願う文で閉じられる点が特徴である。舞曲『含状』諸本のなかには、『義経含状』とほぼ同文の「含状」を収めるものがあり(中野荘次蔵本、幸若舞曲研究1)、文禄2年(1593)書写の上山宗久本(天理善本叢書 舞の本 文禄本・下)や古態を残すと推測されている大方家本(幸若舞曲研究4)も、基本的に同系統とみられることから、『義経含状』は、舞曲から「含状」の文言を切り出して独立させたものとかんがえてさしつかえないであろう。

 このように先行する判官物に淵源をもとめられる先の二状に対して、特定の原拠を見いだせないのが『弁慶状』である。死を覚悟した弁慶が書き遺した書状という体裁のものであるが、判官物の諸作品のなかに対応するエピソードが見いだせないことから、既存の作品ないしエピソードを前提とした書状という性格のものではないようである。さまざまな伝承をもとに、おそらくは江戸時代に入ってから擬作されたものと、ひとまずはかんがえておきたい。なお、『義経含状』は寛永19年(1642)刊の安田十兵衛板が、『弁慶状』は慶安3年(1650)刊の西村又左衛門板が早いものとして指摘されており、これらの二状の成立時期をかんがえる上でひとつの指標となる。

2. 『弁慶状』にみられる伝承
 ここで『弁慶状』に取り入れられた個別の伝承に目を向けてみたい(引用は往来物大系43所収の古状揃[長兵衛板]により、読み下したかたちで示す)。

 まず、冒頭では「抑〈そもそ〉も若年の時、身を雲州鰐淵山に寄せ」と、弁慶の若年時代が語られる。『義経記』や『弁慶物語』では、比叡山や書写山、平泉寺などにおける修行が描かれるのに対して、修行の地を出雲の鰐淵山とする伝承は、近世には散見するものの、管見の限り、『弁慶状』に先行する資料には見いだせない。ただし、幸若舞曲『四国落』には、弁慶が「生まるる所は出雲の国枕木の里」と名乗る場面があり、弁慶の出身を出雲とする伝承の片鱗がうかがわれる。

 つぎに義経との出会いについて、「爰〈ここ〉に源惣領征夷大将軍末子牛若御曹司……都五条橋に夜行の悪党を亡さんがために、辻斬の風聞風〈ほの〉かに之を承る」と記される。辻斬をしているのが義経である点、出会いの場所を五条の橋とする点からは、これが能『橋弁慶』、『笛の巻』などの系譜につらなるものであることがうかがえる(『義経記』や『弁慶物語』では、弁慶が太刀奪いをしており、出会いの場所も五条天神、北野社や清水寺などである)。ただし、辻斬の理由を「夜行の悪党を亡さんがため」とする点は、父の追善供養のためとする能とも微妙なずれがある。

 つづいて『弁慶状』は、平家追討から義経の不遇の後半生へと展開する。つぎに語られるのは堀川夜討のエピソードである。

〈ここ〉に因て都五条油小路において渋谷土佐入道之を窃〈たばか〉る時は、八尺二分の手来の棒、八角に削り、三十二疣〈いぼ〉を落し訖〈おわ〉んぬ。

 ここでは、頼朝から遣わされた刺客を「渋谷土佐入道」と記す点と、その居所を五条油小路とする点に着目したい。まず、土佐坊に渋谷を冠することからは、この部分が、土佐坊を義朝に従った渋谷金王丸の後身とする伝承にもとづくことがうかがえる。幸若舞曲『堀川夜討』には、頼朝が土佐坊について「いまだ金王丸と有りしとき」と回想する部分があり、それに対応する幸若舞曲『鎌田』では金王丸のことを「渋谷の金王」と記している。『弁慶状』は、渋谷姓を冠した金王丸の後身が土佐坊であるという、幸若舞曲の人物設定を継承しているのである。さらに、土佐坊の居所についても諸説あるが、五条油小路とするのは幸若舞曲『堀川夜討』である(『義経記』は六条坊門油小路、『平家物語』は諸本により異なるが五条油小路とするものはない)。

 ただし、弁慶の使う棒にかんする記述については、舞曲と『弁慶状』とで差異がみられる。たしかに、舞曲『堀川夜討』においても、弁慶の棒について詳細に語られるが、「八尺五寸のその内に、八十三の疣をすへ」と、数字が微妙に異なるのである。

 さて、『弁慶状』は、吉野への逃亡につづいて、安宅での勧進帳のエピソードを次のように語る。

折節関守富樫に奇〈あや〉しめられて、弁口を叩き、敵陣にして廻文の笈〈はこ〉に探り当たり、少しも騒がず、逆さまに捧げ披露を遂げ、鰐の口を遁れ、当国に下着し、天命今に期す。

 関守富樫の前での勧進帳披露という点からは、能『安宅』、幸若舞曲『富樫』と結構を共有することがうかがえる。しかしながら、能や舞曲では、富樫に勧進帳を読めと命じられて、「往来の巻物」などを勧進帳に見立てて読み上げるという展開であるのに対して、ここでは「廻文」を見とがめられて、やむなくそれを勧進帳に仕立てたと読める。さらに、それを「逆さまに」捧げたという描写は、能にも舞曲にもみられない。このエピソードにおいても、『弁慶状』と能、舞曲は完全に重なるものではないのである。

 『弁慶状』が具体的なエピソードを語るのはここまでで、この後は死を覚悟した弁慶が、義経の不幸を嘆く文章がつづく。「今日一命を棄て名を万天に揚げ、誉〈ほまれ〉を後代に貽〈のこ〉すものなり」と主君と自身との矜恃を述べ、「右の一通明日披見、旁〈かた〉がた御一感に預かるべきものなり」と、この書状が自身の死後に読まれることを期して書かれたものであることを明らかにして結ばれる。

3. 『弁慶状』の位相
 以上、みてきたように、『弁慶状』にみられる伝承は、能や幸若舞曲といった芸能と密接に関連するものであった。しかも、その重なりは、話の筋だけでなく、出身地や出自といった人物設定のレベルにまで及んでいる。しかしながら、『弁慶状』の典拠を能や幸若舞曲に直接求めることには、慎重にならなければならない。いずれの伝承においても、細部において微妙な差異が散見することからは、能や舞曲と近接したところで独自の展開を遂げた別系統の伝承、異伝の存在がほの見えてくるからである。

 これに対して、元和寛永頃(1615〜43)から古活字版や整版本が刊行されていた『義経記』との重なりはまったくといってよいほど看取されないことにも注意したい。近年、中世における『義経記』の流布が限定的なものであったことが再確認されつつある(説話文学会 2018年6月大会シンポジウム「判官物語研究の展望」など)。先述のとおり、弁慶状の最古版としては慶安3年(1650)板が指摘されているが、成立はさらにさかのぼる可能性もあり、『義経記』刊行との先後関係はにわかに決しがたい。あるいは『弁慶状』の成立時期は、『義経記』の受容が写本から版本へと切り替わるその端境期にあたるとみることもできるのではないか。能や幸若舞曲といった判官物の芸能の流れが確固として存在し、その周辺にさまざまな異伝を生じさせている一方で、『義経記』がいまだ広範な読者を獲得していないという時点における義経伝承の集成として、『弁慶状』を定位することも可能なのではないだろうか。

 『腰越状』は、義経の失意の後半生の幕開けを象徴するものであり、『義経含状』は文字通り最期を飾るものである。幸若舞曲の「含状」の文言をほぼそのまま転用した『義経含状』は、口にくわえた書状という趣向こそがその眼目であり、内容的には「腰越状」の縮小版といってもよいものである。これらの二状に加えて『弁慶状』が構想されたのは、『義経含状』に描かれなかった義経後半生を、さまざまなエピソードを交えつつ、鮮明に描き出すためではなかったか。幼少期の苦難をも語る『腰越状』、末期の『義経含状』に、弁慶の視点から義経後半生を語る『弁慶状』とを合わせることで完成するのは、義経・弁慶が自らしたためた(という体裁の)、一代記のダイジェスト版だったのではないだろうか。

 

 最後にこれらの古状型往来の享受形態について少しく触れておきたい。これらの古状型往来は、手習いの手本という体裁のものから、注や挿絵を加えたものなど、さまざまな形態で刊行された。往来物によくみられる、本文内容とは直接関わらない知識の羅列を伴うものもあるが、描かれたエピソードの解説や絵を付した形式のものも複数刊行されている。図版に掲げたのは文久年間(1861~64)に刊行された槐亭賀全〈かいていがぜん〉『古状揃絵抄』である(筑波大学附属図書館乙武文庫蔵)。本文内容にかんする注とともに、われわれにもなじみ深い弁慶と牛若の絵が行間に挿入されており、読み物として義経・弁慶伝承を楽しむ(学ぶ)こともできるようになっている。初学の段階で古状型往来を通じて義経・弁慶伝承に触れた人々にとっては、そこで語られる義経・弁慶像が、その後のイメージ形成の基盤となったのではないだろうか。実際に古状型往来の影響がみられる文芸も散見するが、これについては紙幅の都合で他日に譲り、近世における義経をめぐる知の一角を形成するものとしての古状型往来のありかたを指摘して、小文を閉じることとしたい。

 

【図版】『弁慶状』(筑波大学附属図書館乙武文庫蔵『古状揃絵抄』)

 

*なお、この文章は、改訂・増補のうえ、近刊『乱世を語りつぐ』(軍記物語講座第四巻)に収録の予定です。
 本講座もあわせてお読みくださいますようお願いいたします。


本井 牧子(もとい・まきこ)
京都大学大学院文学研究科博士後期課程研究指導認定退学。博士(文学)。
京都府立大学文学部准教授。
著書・論文に、「義経後半生を描いた文芸―『義経奥州落絵詞』のありかたを端緒として―」(『説話文学研究』第54号、2019年9月)、「『釈迦堂縁起』とその結構」(『國語國文』第86巻5号、2017年5月)、「國學院大學図書館蔵『義経奥州落絵詞』の諸相―幸若舞曲・能との関連を端緒として―」(針本正行編『物語絵の世界』國學院大學文学部針本正行研究室、2010年3月)など。


松尾葦江編「軍記物語講座」全4巻

  第1巻『武者の世が始まる』 2020年1月刊 本体7,000円

  第2巻『無常の鐘声―平家物語』 2020年 5月刊予定

  第3巻『平和の世は来るか―太平記』 2019年10月刊 本体7,000円

  第4巻『乱世を語りつぐ』 2020年 3月刊予定


軍記物語講座によせて
  9. 田中草大「真名本の範囲」
  8. 木下華子「遁世者と乱世」
  7. 堀川貴司「和漢混淆文をどう見るか」
  6. 中村文「頼政の恋歌一首―『頼政集』五〇七番歌の背景 ―」
  5. 藏中さやか「和歌を詠む赤松教康―嘉吉の乱関係軍記、寸描―」
  4. 渡邉裕美子「みちのくの歌—白河関までの距離感—」
  3. 石川透「軍記物語とその絵画化」
  2. 長坂成行「『太平記』書写流伝関係未詳人物抄」
  1. 村上學「国文学研究が肉体労働であったころ」