「軍記物語講座」によせて(11) 
中村文「歌人としての平家一門」

軍記物語研究にまつわる文章の連載、第11回は、日本女子大学文学部非常勤講師の中村文氏です。
平家には歌人として活躍した人物も多くいますが、『平家物語』において、その代表は清盛の異母弟の忠度〈ただのり〉でしょう。実際には、彼より代表に相応しい人物は他にも挙げられます。にもかかわらず、なぜ彼がそのように描かれるに至ったのか。物語を推し進める和歌の機能、という視点から解き明かします。


歌人としての平家一門

中村 文 

1. 武将歌人平忠度の肖像
 平忠度こそは、『平家物語』に登場する武将の中で、「歌人」としての属性がもっとも明確に打ち出される人物である。清盛の異母弟に当たる忠度は、「熊野そだち、大ぢからの早業」であったと記され、以仁王・源頼政の討伐や、源頼朝の軍と対峙した富士川合戦、あるいは源義仲追討のための北陸下向等、一門にとって重要な意味を持った数多くのいくさに、枢要な役割を負って加わったことが繰り返し記される。しかしながら、忠度という人物を鮮明に印象づけるのは、武技に優れた勇猛な武将としての姿よりも、むしろ、彼の詠歌と関連させつつ語られる「忠度都落」や「忠度最期」といった章段であろう(以下、『平家物語』の引用は特に断らない限り覚一本に拠る)。

 「忠度都落」では、忠度の歌道に対する執着が示される。寿永二年(1183)七月の平家都落ちに際し、京へと引き返した忠度は、当代の和歌の権威藤原俊成を訪ね、自らの詠草百余首を記した巻物を進上して、勅撰集撰進の折には「一首なりとも御恩を蒙って」入集させてほしいと望んで去っていく。戦乱の終熄後、『千載集』撰進に当たり、俊成は巻物の中から、

さゝなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな

の歌を撰入させたが、作者が朝敵であることに憚り、「よみ人しらず」歌として収めたとの後日譚が付される。

 また、「忠度最期」では、一の谷の合戦に敗れて落ち延びる忠度を襲い組み討ちにした岡部六弥太忠澄は、当初、自らが上げた首級の主が誰であるかを知らなかったが、箙〈えびら〉に結び付けられた、

行き暮れて木の下かげを宿とせば花や今宵のあるじならまし  忠度

の一首により忠度と判明する。叙述に古態を残す延慶本『平家物語』にあっては、「行き暮れて」歌は記されず、「是は誰が頸ぞ」と問うた忠澄は、「あれこそ太政入道の末弟薩摩守忠度といひし歌人の御首よ」と教えられて事実を知る。『平家物語』という作品自体の生成の過程で、忠度像が、戦場で敵と組み合って討たれる一武将としての造型を脱し、いくさに身を置いてさえ風流心を忘れず、矢を収める武具たる箙に自詠を結び付けるような文雅の要素の色濃い人物へと変容していったのは明らかであろう。「忠度最期」段の最末には、人々が忠度を「あないとほし、武芸にも歌道にも達者にておはしつる人を」と称賛し、その死を悼んだことが記される。『平家物語』には、忠度を武芸(箙)と文芸(詠作)とを二つながらアイデンティティの根源とするような人物として描こうとする意志が明確に存したと言えよう。その結果として生まれた忠度像は、例えば、謡曲「忠度」等へと長く引き継がれ、風雅に執する姿が固着していく。

2. 平家の歌人たち
 清盛の近親者に和歌愛好の士が多く存在したことはよく知られる。そもそも、忠度たちの父忠盛が和歌に熱心で、崇徳院が催した久安百首の作者に入るなど、ひとかどの歌人として認められても居たが、『平家物語』の冒頭近く、「鱸〈すずき〉」の段に、

有明の月も明石の浦風に浪ばかりこそよると見えしか

と詠んで鳥羽院の御感を得たことが記されるように、忠盛の詠歌の動機には、卑位の武士が公家社会に食い入り階層を上昇させる手段としての意味合いが少なからず存したと考えられる。右の歌は、月の名所である明石に材を取り、地名「明石」と「明かし(明るい意)」、「寄る」と「夜」の二組の掛詞を用いながら、夜更けに出る有明月の光の中で、風に吹かれて打ち寄せる浪が海辺を洗う美しい光景を叙すものだが、その一方で、同じ場面を、有明の光があまりに明るいので、「寄る」浪だけが「夜」だと見えましたよ、と戯れた捉え方で差し出してみせている。一通りの文字列の中に、ふた種類の異なった文脈を綴じ合わせる和歌に独特の修辞は、貴族文化の伝統が磨いてきた技芸である。この言語の機能に習熟し自在に運用して、武士らしい軽妙な身ぶりまでも織り込んでみせる能力は、公家社会への参入に不可欠なパスポートであった。

 忠盛の跡を承け、忠度のような第二世代以下の人々は、作歌に励むばかりでなく、自家での歌合・歌会も盛んに催した。嫡流たる小松家の次男資盛は忠盛の曾孫に当たるが、

  資盛卿家の歌合に、五月雨をよめる   寂蓮
花の春月の秋だに人とはぬしばの庵の五月雨の空(玄玉集88)

  資盛家歌合、五月雨          皇太后宮大夫俊成卿
五月雨は雲まもなきを河社いかに衣をしのにほすらん(夫木抄3015)

等の作から、当時の著名歌人を招いて歌合を開催したことが知られる。作歌活動をより文芸的な意識でとらえるようになっていたのは明らかであろう。平家一門によるこうした文学営為は、かつては「平家歌壇」の名で括られ、政治権力を掌握した清盛の権勢と経済力に支えられつつ、平氏の文化面を担った催しと目されていた。しかしながら、平家一門の内部が必ずしも一枚岩ではなかったことを明らかにしてきた日本史研究の成果に照らしても、清盛の政治権力と平家歌人主催の雅事とを表裏一体と見る理解は妥当とは言い難い。また、前掲の忠度「さゝなみや」歌は、為業入道(寂念)が治承二年(1178)以前に催した歌合において、俊恵や源頼政らと同座する中で詠まれたもので、平家歌人の詠作機会が同時代の歌人たちと交流する場へと広く展開していたことを証している。彼らの和歌営為を「平家歌壇」の概念に閉じ込めてしまうべきではないだろう。

 ところで、忠度の歌人としての活動は、家集『忠度集』にその概略を追うことができる。治承二年別雷社歌合〈わけいかずちしゃうたあわせ〉や平経盛の福原山荘等における歌会への出詠が知られ、大輔・小侍従といった当代の女房歌人との交流も確認できる。また、後白河院皇子守覚法親王の『左記』には、忠度が仁和寺歌会の常連であったことが記され、他歌人の家集にも、

  忠度の家の歌合に、ほととぎすを
ほととぎすおのが声をば惜しみつつ人の心をつくさするかな(有房集81)

  忠度朝臣家にて、山家水鶏といふ事をよめる
柴の戸はよはの水鶏〈くひな〉もおどしけり峯の嵐のたたくのみかは(経正集26)

等と見えることから、歌合を複数回催したことが知られる。さらに、

  盛方朝臣かきおきたりける万葉抄を、かの人身まかりてのち、
  かの家のもとへ返しつかはすとて
ありし世は思はざりけむ書きおきてこれを形見と人しのべとは(忠度集91)

から、歌道への執心も明らかで、『平家物語』が忠度を一門の代表的歌人として描くのは、忠度の和歌活動の実態を反映した結果であるようにも見えるのである。

3. 物語装置としての和歌
 ただし、和歌事績の多寡や同時代的評価という観点から見るならば、忠度よりも平家歌人を代表するに相応しい人物がいる。二十歳年長の異母兄経盛である。父忠盛の歌会から出発した経盛は、二条天皇内裏歌会への出詠を経て、仁安~承安年間(1166~1171)に少なくとも四箇度の歌合を主催、重家家歌合や住吉・広田・別雷の三箇度の社頭歌合にも出詠した他、忠度と同様に仁和寺歌会の常連でもあり、歌壇における活動は忠度より遥かに活発である。また、二代后多子の宮職を二十年にわたって勤め、多子の実家である閑院流の人々と交流し、当代の和歌の権威藤原清輔は下僚であった。二条天皇御本の『万葉集』を書写し(六条家本『万葉集』奥書)、実体の不明な歌語「まそほの薄」に関する所説を伝えるなど(散木集注)、和歌に対する執心も並々ではなかった。父忠盛の詠草を手許に留め、歌人として跡を襲おうとする意識も強かった。同時代の人々から「平家歌人を代表する存在」と目されていたのは、忠度ではなく経盛であったと推測される。

 『平家物語』において、経盛が和歌と関わる場面で登場するのは、彼が歌人として広く認識されていたからであろう。例えば、「緒環」の段において、落ちのびた九州太宰府で九月十三夜の月を眺めつつ、経盛・忠度・経正は京都を懐かしみ詠歌し合っている。しかしながら、経盛が風雅への執着をテーマとする歌話の主人公として語られることはなかった。

 経盛は忠度と同様に、『千載集』に「よみ人しらず」として次の一首が採られている。

  題しらず            よみびとしらず
いかにせむ御垣が原に摘む芹の音〈ね〉にのみ泣けど知る人のなき(千載集・恋一・668)

 これが経盛の作であることは、平安最末に編まれた秀歌撰『治承三十六人歌合』に経盛の詠十首の一つとして載る(二句「宮城の原に」)ことから明らかである。「芹を摘む」は、

芹つみし昔の人も我がごとや心に物はかなはざりけむ

という古歌に拠る表現で、思いを寄せる相手に心が届かない苦悩を表徴する措辞として、『俊頼髄脳』『奥義抄』等の平安後期以降の歌学書で繰り返し言及され、

しのびかねみかきの原に摘むせりのしづくに袖ぞ顕れぬべき(林葉集675)
〈いにしへ〉はみかきが原にせりつみし人もかくこそ袖はぬれけめ(頼政集552)
せりつみしみかきが原はそれながら昔をよそにぬらす袖かな(千五百番歌合・源通具)

のように、恋題歌を彩る趣向として、同時代歌人に好み用いられた。経盛歌もこの用法から逸脱せず、思慕する相手に恋情を伝え得ずひとり涙を流す男の姿を描いている。

 忠度と同じく平家歌人として活躍し、『千載集』に「よみ人しらず」歌として一首を採られる点でも共通していながら、経盛が「平家歌人の風雅と哀れを語る歌話」の主人公になり得なかったのは、『千載集』に入集したこの歌が、ままならぬ恋に嘆く男の姿を限定的に喚起するにとどまることにも起因するのではないだろうか。

 延慶本『平家物語』では、覚一本の「忠度都落」に当たる「薩摩守道ヨリ返テ俊成卿ニ相給事」に続いて、「行盛ノ哥ヲ定家卿入新勅撰事」(行盛の哥を定家卿、新勅撰に入るる事)が語られる。幼少から藤原定家に歌を学んでいた平行盛(清盛男基盛の嫡男)は、都落ちに際して自詠を書き集め、その端に、

流れての名だにもとまれ行く水のあはれはかなき身は消えぬとも

と記して定家に送ったところ、定家はこの歌に感動し、『新勅撰集』に作者名を明示して入集させたというのである。ここで注目したいのは、行盛の歌が、転戦の果てに壇ノ浦で死ぬ自らの運命をあたかも予言し、それを受け容れた上で抱く切ない望みを語っているかに読みうる点である。歌話の軸となる和歌は、その作者の代表歌であるとか、優れた詠であるだけでは十分でなく、作者の実人生と重ね合わさり、物語の場面が指向する気分に寄り添って、読者を感動させるだけの抒情へと増幅させうる力が求められていたことを示唆している。

 経盛の「いかにせむ」歌によって、栄華から滅亡へと傾斜する清盛一門の運命や、時代に翻弄され死へと歩む経盛の姿を思い浮かべ、その情感をより深く味わうことは難しい。一方、忠度の「さゝなみや」詠は、遠い昔に荒廃した古京(天智天皇の大津京)に焦点を当て、転変する人の世の時間とは無関係に美しく咲き続ける長等山の桜とを取り合わせており、都と別れ戦いに赴く人物を描いた場面と相俟って、滅び行く者の儚さと、無窮に流れ続ける時間の中に浮かぶ人間の哀れさを思い起こさせる。そこでもたらされる情感は、忠度個人の運命にまつわるのみならず、『平家物語』全体に底流する、死んだ者たちを深く悼み鎮魂しようとする意志とも結びついていよう。『平家物語』の各章段に嵌め込まれた和歌は、単に詠まれた作品の紹介として示されているのではなく、場面を領導して情感を形成し、物語を推し進める機能を負わされていると考えられる。意味的な説述性よりも、読者に訴えかけて映像と情調を喚起する力を重視する中世的な和歌のあり方を、『平家物語』は深く理解していたと言うべきであろう。忠度が平家一門を代表する歌人として描かれるに到ったのは、「さゝなみや」歌の持つ象徴性が『平家物語』にとって重要な意味を持つと判断されたからではなかっただろうか。


中村 文(なかむら・あや)
立教大学大学院文学研究科博士課程後期課程満期退学。博士(文学)。
日本女子大学文学部非常勤講師。
著書に、『後白河院時代歌人伝の研究』(笠間書院、2005年)、編著書に、中村文編『歌人源頼政とその周辺』(青簡舎、2019年)、共著書に、『奥義抄古鈔本集成』(和泉書院、2020年)など。


松尾葦江編「軍記物語講座」全4巻

  第1巻『武者の世が始まる』 2020年1月刊 本体7,000円

  第2巻『無常の鐘声―平家物語』 2020年 5月刊予定

  第3巻『平和の世は来るか―太平記』 2019年10月刊 本体7,000円

  第4巻『乱世を語りつぐ』 2020年 4月刊予定


軍記物語講座によせて
  10. 本井牧子「古状で読む義経・弁慶の生涯―判官物の古状型往来―」
  9. 田中草大「真名本の範囲」
  8. 木下華子「遁世者と乱世」
  7. 堀川貴司「和漢混淆文をどう見るか」
  6. 中村文「頼政の恋歌一首―『頼政集』五〇七番歌の背景 ―」
  5. 藏中さやか「和歌を詠む赤松教康―嘉吉の乱関係軍記、寸描―」
  4. 渡邉裕美子「みちのくの歌—白河関までの距離感—」
  3. 石川透「軍記物語とその絵画化」
  2. 長坂成行「『太平記』書写流伝関係未詳人物抄」
  1. 村上學「国文学研究が肉体労働であったころ」