「軍記物語講座」によせて(12) 
浜畑圭吾「長門本『平家物語』研究小史―その成立をめぐって―」

軍記物語研究にまつわる文章の連載、第12回は、高野山大学文学部准教授の浜畑圭吾氏です。
70以上の写本が伝わる長門本『平家物語』は、重要な諸本として注目を集めてきました。多くの研究者が取り組んできた膨大な研究成果を、成立の問題に絞って、簡潔にわかりやすく紹介します(本シリーズ最終配本『無常の鐘声—平家物語』には、浜畑氏による長門本の「成立」と「伝来環境」についての論考を収録予定)。


長門本『平家物語』研究小史―その成立をめぐって―

浜畑 圭吾 

 長門本『平家物語』(以下長門本)は、読み本系『平家物語』の重要な諸本のひとつである。阿弥陀寺本(旧国宝本、赤間神宮所蔵本とも)をはじめ七十数本の写本が確認されており、近世以来その存在は注目されてきた。しかしながら現在に至るまで、そのまとまった研究史は管見に入らない。紙幅の関係もあり主に成立の問題に限定するが、これまでの成果を概観しておきたいと思う。

1. 長門本の成立環境
 近世以来注目されてきた長門本の成立問題が本格的に論じられるようになったのは、延慶本の登場とともに、両本の関係性が注目されるようになってからであろう。近代に入って、山田孝雄や後藤丹治が近世以来の懸案である『盛衰記』との先後関係に引き続き取り組み1[注1] 山田孝雄『平家物語考』第二章「平家物語諸本解題」(国語調査委員会、1911年)、後藤丹治「長門本平家と盛衰記との関係」(『藝文』15-12、1924年)、高木武が延慶本を加えて、その記載事項や構成の検討に入った2[注2] 「平家物語延慶本長門本源平盛衰記の関係について」(『東亜の光』第22巻8号、1927年)。その到達点とも言えるのが、冨倉二郎の延慶本長門本兄弟説3[注3] 「延慶本平家物語考―長門本及び源平盛衰記との関係―」(『文學』第2巻第3号、1934年)であり、その成果は現在も有効である。冨倉は長門本の成立を1234年から1252年の間とし、続いて渥美かをる4[注4] 「説話形成についての一考察―平家物語長門本の得長寿院供養譚をめぐって―」(『軍記物語と説話』笠間書院、1979年〔初出1962年〕)も両本に共通の祖本を認め、蓮華王院が倒壊した1185年頃に基本形ができあがり、その後段階的に各種霊験譚が加わって、1249年に同院が焼亡しその後再建されたのを機に現在の長門本のような形に展開したとする。蓮華王院などの京都寺院の霊験譚を成立圏とからめて考察したことはその後さらに深められ、「密教宗派」と範囲が限定された5[注5] 渥美かをる「長門本平家物語における頼朝蜂起の記事と吾妻鑑との関係について」(『軍記物語と説話』笠間書院、1979年〔初出1963年〕)、同「長門本平家物語の加筆者と享受の場について」(『軍記物語と説話』〔初出1963年〕)。また渥美は長門本を「絵語りのために物語化された」「庶民を対象とする唱導用の物語」(『平家物語の基礎的研究』155頁、三省堂、1962年)とし、山下宏明も「実際の語りや唱導への接近」(『源平闘諍録と研究』280頁、未刊国文資料刊行会、1963年)を認めている。すでに戦前に中島正国(「長門本平家物語の原本に就て」〈『國學院雑誌』昭和6年1月号、1931年〉)が、その絵解きの可能性を指摘しているが、これはその文体に「言語遊戯」「ことば遊び」の傾向を認める西田直敏(「平家物語の文章展開手法」〈『平家物語の文体論的研究』明治書院、1978年〔初出1967年〕〉)や船越亮佑(「長門本『平家物語』の狂言趣味―猿眼赤鬚男と悪土佐金蓮について―」〈『学芸古典文学』6、2013年〉)の指摘とも関わるか。ただし武久堅(「読み本系諸本(広本)の成長過程(一)」〈『平家物語成立過程考』おうふう、1986年〔初出1978年〕〉)は「琵琶語り」や「唱導的な語り」からは少し距離を置き、「文章語」として、「机上での著述活動の産物」、読むことを前提とした作品とする。

 延慶本との兄弟性の認定が、長門本の伝来についての関心となり、その成立を検討することに繋がっていったと言える。また、新たに南都異本との兄弟性が松尾葦江、武久堅、島津忠夫によって認められ、稿者も『高野物語』との接点を主張した6[注6] 松尾葦江「長門本・延慶本・盛衰記の平氏断絶記事について―読み本系とは何かを考えるために―」(『平家物語論究』明治書院、1985年〔初出1971年〕)、武久堅「読み本系諸本(広本)の成長過程(一)」(『平家物語成立過程考』おうふう、1986年〔初出1978年〕)、島津忠夫「長門本平家物語の一考察」(『平家物語試論』汲古書院、1997年〔初出1992年〕)、浜畑圭吾『平家物語生成考』「「旧南都異本」と『高野物語』の関係」(思文閣出版、2014年〔初出2006年〕以下拙著)。南都異本が巻一〇のみの零本ということもあって、全体的な考察は困難であるが、阿弥陀寺本以前の長門本本文の実態を把握するためには有効である。

 以後、延慶本とは異なった環境7[注7] 武久堅「読み本系諸本(広本)の成長過程(一)」(『平家物語成立過程考』おうふう、1986年〔初出1978年〕)で成立したであろうことは共通の認識となり、その具体的な場が追求されていくことになる。

 そうした長門本の成立環境について、はやくから積極的に取り組んだのが砂川博である。砂川は、長門本の大きな特徴の一つと言える巻第五の「厳島次第之事」に「中世高野浄土信仰の影響」を読み取り、厳島聖をその担い手と見定めた8[注8] 「長門本平家物語と厳島聖」(『平家物語新考』東京美術、1982年〔初出1970年〕)。そして京都関連説話に中世非人の存在を想定し9[注9] 「長門本平家物語と陰陽師」(『平家物語新考』東京美術、1982年〔初出1980年〕)、「長門本平家物語と「坂の者」」(『平家物語新考』〔初出1980年〕)、渥美論を受ける形で、藤原成親を中心とした一族の描かれ方にも注目10[注10] 「長門本平家物語の成親説話」(『平家物語新考』東京美術、1982年〔初出1972年〕)、成親の弟実教の系譜である山科家を編著の場として考え、同家に出入りする西国行脚の琵琶法師からの情報を基にして、室町初期から中期にかけて編纂されたとする11[注11] 『平家物語の形成と琵琶法師』第三編第五章「長門本平家物語の成立と琵琶法師」(おうふう、2001年〔初出2000年〕)。松尾葦江はこうした特徴を、一人の人物に焦点をあてて語っていく長門本の方法と見る(「長門本平家物語の鹿谷事件話群について」〈『軍記物語論究』明治書院、1985年〔初出1968年〕〉)。また砂川は成経説話にも注目、その独自説話を貴種流離譚と見て九州地方の唱導の産物であるとし、大内氏隆盛の室町中期の成立とする(「長門本平家物語の成経説話」〈『平家物語新考』東京美術、1982年〔初出1974年〕〉)。その後も成親成経父子の物語についての成果が続く。そうした一連の先行研究については、船越亮佑「長門本『平家物語』における成親・成経父子の配流記事―「推量」の語と「龍宮城」の場をめぐって―」(『学芸古典文学』7、2014年)に簡潔にして要を得たまとめがある。。長門本の特徴の一つである西国関連説話をどのように捉えるかという点では、一つの結論であろう。同じく西国関連説話に取り組んできた白石一美12[注12] 「長門本平家物語伯耆局説話の形成とその享受」(『中世文藝』50〈後集〉、1972年)、「長門本平家物語における諸問題」(『山口県地方史研究』36号、1977年)。また白石は「平家物語における赤井などについて」(『宮崎大学教育文化学部紀要 人文科学』第18号、2008年)においては「南北朝以降、室町時代の狭い京都辺りの庶民向け唱導文芸として再編成された平家の異本、それが長門本」とする。も、これらは都にもたらされたものであるとし、14世紀前半以降の成立で、14世紀後半から15世紀前半までを下限として、京都周辺で成立したとするが、砂川のような具体的な編纂の場は提示しない。

 また阿弥陀寺(赤間神宮)に隣接する旧家伊藤家に蔵されている長門本の一本、伊藤家本をとりあげた石田拓也は、本文の内容よりも阿弥陀寺に蔵されていた古文書類の解明を中心に、成立の問題に向き合い、阿弥陀寺本は同地で成立したとみる。ただし石田も阿弥陀寺本を長門本の原本とは考えておらず、「京都周辺の地」から文明年間(1469~1487)に同地にもたらされたものとする。長門本の成立時期に西国の有力大名大内氏の隆盛期を重ねた点は注目すべきだろう13[注13] 『伊藤家蔵長門本平家物語』解題(汲古書院、1977年)、「長門本赤間関阿弥陀寺―長門本平家物語の背景―」(『軍記と語り物』第14号、1978年)。石田は「平家物語諸本の調査―特に長門本平家物語について―」(『私学教育研究所紀要』21、1973年)でも大内氏に触れているが、より詳細なのは前掲の二本である。松尾葦江は、「阿弥陀寺に所蔵されたことと長門本の成立が無関係であるかどうかも論じられてよい」(『軍記物語原論』171頁、笠間書院、2008年)とする。

 一方で松尾葦江14[注14] 「長門本平家物語の性格」(『平家物語論究』第三章二、明治書院、1985年〔初出1964年〕)の、渥美論に対する疑義は、本文と成立の問題を考えるにあたっての重要な警鐘である。松尾は、蓮華王院説話の管理者と長門本の編著者が必ずしも一致するとは限らず、特定の地域や集団からの材料提供とそれをまとめあげた「編著者」とは区別すべきであるとした。川鶴進一15[注15] 「長門本『平家物語』の本文形成―語り本記事挿入箇所の検討―」(『国文学研究』120、1996年)、「長門本『平家物語』の盛久観音利生譚をめぐって」(『軍記文学の系譜と展開』汲古書院、1998年)、「長門本『平家物語』の屋嶋合戦譚―構成面からの検討―」(『早稲田大学大学院文学研究科紀要』42輯第3分冊、1997年)。川鶴は「長門本と略本群との関係」(『長門本平家物語の総合研究』論究篇、勉誠出版、2000年)においても同様にその後出性を述べ、宗論の記事も後出性が見られるとする。従うべきであろう。もまた独自本文から成立を考えることについては、本文の全体像との連関の上で想定すべきであるとし、語り本との影響関係の解明から長門本の後代性を浮き彫りにして、島津忠夫が主張した「室町的」な色合いという長門本の性質を裏付けた。

 長門本に限った問題ではないが、個々の記事の成立事情を、単純に全体の問題に重ねることはできない。長門本の成立事情を解く鍵のひとつが、その個性豊かな地方説話にあることは間違いないであろうが、それが長門本全体の成立にどのように関わっているのかということを意識的に、しかしながら慎重に判断していく必要があるだろう。

2. 本文研究の発展
 1998年から2000年にかけて、麻原美子、名波弘彰、犬井善壽によって『長門本平家物語の総合研究』と冠した校注篇上下、論究篇の計三巻が刊行され、さらに2004年から2006年にかけて、より精度を高めた普及版として『長門本平家物語』全四巻の刊行が続いた。校注篇に脚注が施されたことからも、長門本の本文研究の深化がうかがえる16[注16] 長門本の本文については、松尾葦江「新たに調査された長門本平家物語」(『海王宮―壇之浦と平家物語』三弥井書店、2005年)でさらに書誌調査が進み、大谷貞德(「新出『平家物語』(長門本)の紹介」『国語 教育と研究』58号、栃木県高等学校教育研究会国語部会、2019年)が新しい伝本を紹介するなど、今後も成果が期待できる。また、村上光徳(「『長門本平家物語』流布の一形態―山口県文書館所蔵毛利家文書の場合―」〈『軍記と語り物』13号、1976年〉、「国立国会図書館蔵『長門本平家物語』(貴重書)について―長州藩蔵本か―」〈『長門本平家物語の総合研究』論究篇、勉誠出版、2000年〉)が注目した山口大学図書館所蔵(萩明倫館旧蔵本)の欠巻が、鶴見大学図書館収蔵の長門本巻第一、巻第二であることを明らかにした平藤幸(「萩明倫館旧蔵長門本『平家物語』首両巻をめぐって」〈『軍記物語の窓』第5集、和泉書院、2017年〉、「八葉の大臣」をめぐって―萩明倫館旧蔵長門本『平家物語』本文の読みの可能性」〈『日本文学』、2017年〉)の報告も、注目すべき長門本の伝本研究の成果である。成立の問題と関わるところでは、阿弥陀寺における長門本の所蔵環境の追究が必要だろう。そうしたことについては、阿弥陀寺文書をめぐる村上光徳の一連の成果(「赤間神宮所蔵五十二号文書の意味―長門本平家物語研究の一手懸かりとして―」〈『駒沢短大国文』6号、1975年〉、「五十二号書簡をめぐって―長門本平家物語研究の問題点を探る―」〈『海王宮―壇之浦と平家物語』、三弥井書店、2005年〉)がある。。そうした成果と連動して、同書論究篇第一部には「第三章 長門本『平家物語』の成立・作者圏」が設定され、前掲の砂川論、漢故事の流入問題から成立を応安7年(1374)以降とする増田欣論、和歌の摂取態度からその改編方法を探る櫻井陽子論、巻第五「厳島次第之事」の依拠資料である『厳島大明神日記』を検討した牧野和夫論の四本が収載された。『厳島大明神日記』についてはすでに指摘があり、牧野も1996年に同書の全海手沢本を紹介している17[注17] 『中世の文学 源平盛衰記』(三)巻第一三の補注三九(三弥井書店、1994年)。牧野「長門本『平家物語』巻五「厳島次第之事」をめぐる一考察―『竈山寶満大菩薩記』を介して―」(『実践国文学』50号、1996年)。牧野はこれを、「「長門本延慶本共通祖本」に近い生成過程の一時期」にもたらされたとし、西大寺流の主要寺院に備えられていたと「仮定」すれば、「長門本の西国関連記事を、西国に於ける「蒐集」や「西国聖の活動の全て」に委ねることの意味は極めて希薄」とする。独自記事の成立環境と長門本編纂の場を重ねることに慎重な姿勢を示しながら、長門本の成立環境を提示した点は注目される。

 また、「第二章 広本・略本『平家物語』との関係」に収載された武久堅18[注18] 武久は「前長門本」は二十四巻で、現長門本はそれを縮小して二十巻にしたとしている。現長門本本文が「杜撰」とされることへの一つの考えであるが、諸本中唯一の二十巻であるという構成をどのように考えるかということへの提言でもある。長門本の巻冊数については、松尾葦江『平家物語論究』(明治書院、1985年)第三章「長門本の基礎的研究」210頁から216頁に詳しい。論文の課題は、長門本と『盛衰記』の関係という、長門本研究史では早くから取り上げてこられた問題であるが、武久は両本の関係を兄弟関係とし、旧延慶本から分岐したところでの共通祖本を想定した。武久はこれを「前長門本」とし、同段階での記事の挿入や現長門本での再編集を指摘している。

3. 成立をめぐる問題二点
 長門本の成立をめぐる問題をまとめると次の二点である。まずは現長門本を遡る本文の性格の究明である。その祖本については、延慶本との関係から「旧延慶本」が想定されてきたが、同時に『盛衰記』との祖本や、南都異本との祖本も検討されており、これらをどのようにまとめるかという問題は残されたままである。現存しない本文の検討には禁欲的でなければならないが、現長門本が転写本であることが明らかである以上、その成立問題に祖本の想定は必要であろう。また、読み本系諸本における長門本の位置づけの再検討にもつながる。

 次に特徴的な地方説話群をどのようにとらえるかということである。独自説話の成立状況をただちに長門本全体の問題にまで拡大することには慎重であるべきだが、個性的な地方説話群がどの時点の長門本本文と関係したのかということは、成立環境の想定と大きく関わってくるだろう。

 以上二点としてあげたがこれらは別々の問題ではなく、精緻な諸本比較と、成立基盤究明の結果が有機的に構成されることが求められているのである。

 

[注1] 山田孝雄『平家物語考』第二章「平家物語諸本解題」(国語調査委員会、1911年)、後藤丹治「長門本平家と盛衰記との関係」(『藝文』15-12、1924年)
[注2] 「平家物語延慶本長門本源平盛衰記の関係について」(『東亜の光』第22巻8号、1927年)
[注3] 「延慶本平家物語考―長門本及び源平盛衰記との関係―」(『文學』第2巻第3号、1934年)
[注4] 「説話形成についての一考察―平家物語長門本の得長寿院供養譚をめぐって―」(『軍記物語と説話』笠間書院、1979年〔初出1962年〕)
[注5] 渥美かをる「長門本平家物語における頼朝蜂起の記事と吾妻鑑との関係について」(『軍記物語と説話』笠間書院、1979年〔初出1963年〕)、同「長門本平家物語の加筆者と享受の場について」(『軍記物語と説話』〔初出1963年〕)。また渥美は長門本を「絵語りのために物語化された」「庶民を対象とする唱導用の物語」(『平家物語の基礎的研究』155頁、三省堂、1962年)とし、山下宏明も「実際の語りや唱導への接近」(『源平闘諍録と研究』280頁、未刊国文資料刊行会、1963年)を認めている。すでに戦前に中島正国(「長門本平家物語の原本に就て」〈『國學院雑誌』昭和6年1月号、1931年〉)が、その絵解きの可能性を指摘しているが、これはその文体に「言語遊戯」「ことば遊び」の傾向を認める西田直敏(「平家物語の文章展開手法」〈『平家物語の文体論的研究』明治書院、1978年〔初出1967年〕〉)や船越亮佑(「長門本『平家物語』の狂言趣味―猿眼赤鬚男と悪土佐金蓮について―」〈『学芸古典文学』6、2013年〉)の指摘とも関わるか。ただし武久堅(「読み本系諸本(広本)の成長過程(一)」〈『平家物語成立過程考』おうふう、1986年〔初出1978年〕〉)は「琵琶語り」や「唱導的な語り」からは少し距離を置き、「文章語」として、「机上での著述活動の産物」、読むことを前提とした作品とする。
[注6] 松尾葦江「長門本・延慶本・盛衰記の平氏断絶記事について―読み本系とは何かを考えるために―」(『平家物語論究』明治書院、1985年〔初出1971年〕)、武久堅「読み本系諸本(広本)の成長過程(一)」(『平家物語成立過程考』おうふう、1986年〔初出1978年〕)、島津忠夫「長門本平家物語の一考察」(『平家物語試論』汲古書院、1997年〔初出1992年〕)、浜畑圭吾『平家物語生成考』「「旧南都異本」と『高野物語』の関係」(思文閣出版、2014年〔初出2006年〕以下拙著)
[注7] 武久堅「読み本系諸本(広本)の成長過程(一)」(『平家物語成立過程考』おうふう、1986年〔初出1978年〕)
[注8] 「長門本平家物語と厳島聖」(『平家物語新考』東京美術、1982年〔初出1970年〕)
[注9] 「長門本平家物語と陰陽師」(『平家物語新考』東京美術、1982年〔初出1980年〕)、「長門本平家物語と「坂の者」」(『平家物語新考』〔初出1980年〕)
[注10] 「長門本平家物語の成親説話」(『平家物語新考』東京美術、1982年〔初出1972年〕)
[注11] 『平家物語の形成と琵琶法師』第三編第五章「長門本平家物語の成立と琵琶法師」(おうふう、2001年〔初出2000年〕)。松尾葦江はこうした特徴を、一人の人物に焦点をあてて語っていく長門本の方法と見る(「長門本平家物語の鹿谷事件話群について」〈『軍記物語論究』明治書院、1985年〔初出1968年〕〉)。また砂川は成経説話にも注目、その独自説話を貴種流離譚と見て九州地方の唱導の産物であるとし、大内氏隆盛の室町中期の成立とする(「長門本平家物語の成経説話」〈『平家物語新考』東京美術、1982年〔初出1974年〕〉)。その後も成親成経父子の物語についての成果が続く。そうした一連の先行研究については、船越亮佑「長門本『平家物語』における成親・成経父子の配流記事―「推量」の語と「龍宮城」の場をめぐって―」(『学芸古典文学』7、2014年)に簡潔にして要を得たまとめがある。
[注12] 「長門本平家物語伯耆局説話の形成とその享受」(『中世文藝』50〈後集〉、1972年)、「長門本平家物語における諸問題」(『山口県地方史研究』36号、1977年)。また白石は「平家物語における赤井などについて」(『宮崎大学教育文化学部紀要 人文科学』第18号、2008年)においては「南北朝以降、室町時代の狭い京都辺りの庶民向け唱導文芸として再編成された平家の異本、それが長門本」とする。
[注13] 『伊藤家蔵長門本平家物語』解題(汲古書院、1977年)、「長門本赤間関阿弥陀寺―長門本平家物語の背景―」(『軍記と語り物』第14号、1978年)。石田は「平家物語諸本の調査―特に長門本平家物語について―」(『私学教育研究所紀要』21、1973年)でも大内氏に触れているが、より詳細なのは前掲の二本である。松尾葦江は、「阿弥陀寺に所蔵されたことと長門本の成立が無関係であるかどうかも論じられてよい」(『軍記物語原論』171頁、笠間書院、2008年)とする。
[注14] 「長門本平家物語の性格」(『平家物語論究』第三章二、明治書院、1985年〔初出1964年〕)
[注15] 「長門本『平家物語』の本文形成―語り本記事挿入箇所の検討―」(『国文学研究』120、1996年)、「長門本『平家物語』の盛久観音利生譚をめぐって」(『軍記文学の系譜と展開』汲古書院、1998年)、「長門本『平家物語』の屋嶋合戦譚―構成面からの検討―」(『早稲田大学大学院文学研究科紀要』42輯第3分冊、1997年)。川鶴は「長門本と略本群との関係」(『長門本平家物語の総合研究』論究篇、勉誠出版、2000年)においても同様にその後出性を述べ、宗論の記事も後出性が見られるとする。従うべきであろう。
[注16] 長門本の本文については、松尾葦江「新たに調査された長門本平家物語」(『海王宮―壇之浦と平家物語』三弥井書店、2005年)でさらに書誌調査が進み、大谷貞德(「新出『平家物語』(長門本)の紹介」『国語 教育と研究』58号、栃木県高等学校教育研究会国語部会、2019年)が新しい伝本を紹介するなど、今後も成果が期待できる。また、村上光徳(「『長門本平家物語』流布の一形態―山口県文書館所蔵毛利家文書の場合―」〈『軍記と語り物』13号、1976年〉、「国立国会図書館蔵『長門本平家物語』(貴重書)について―長州藩蔵本か―」〈『長門本平家物語の総合研究』論究篇、勉誠出版、2000年〉)が注目した山口大学図書館所蔵(萩明倫館旧蔵本)の欠巻が、鶴見大学図書館収蔵の長門本巻第一、巻第二であることを明らかにした平藤幸(「萩明倫館旧蔵長門本『平家物語』首両巻をめぐって」〈『軍記物語の窓』第5集、和泉書院、2017年〉、「八葉の大臣」をめぐって―萩明倫館旧蔵長門本『平家物語』本文の読みの可能性」〈『日本文学』、2017年〉)の報告も、注目すべき長門本の伝本研究の成果である。成立の問題と関わるところでは、阿弥陀寺における長門本の所蔵環境の追究が必要だろう。そうしたことについては、阿弥陀寺文書をめぐる村上光徳の一連の成果(「赤間神宮所蔵五十二号文書の意味―長門本平家物語研究の一手懸かりとして―」〈『駒沢短大国文』6号、1975年〉、「五十二号書簡をめぐって―長門本平家物語研究の問題点を探る―」〈『海王宮―壇之浦と平家物語』、三弥井書店、2005年〉)がある。
[注17] 『中世の文学 源平盛衰記』(三)巻第一三の補注三九(三弥井書店、1994年)。牧野「長門本『平家物語』巻五「厳島次第之事」をめぐる一考察―『竈山寶満大菩薩記』を介して―」(『実践国文学』50号、1996年)
[注18] 武久は「前長門本」は二十四巻で、現長門本はそれを縮小して二十巻にしたとしている。現長門本本文が「杜撰」とされることへの一つの考えであるが、諸本中唯一の二十巻であるという構成をどのように考えるかということへの提言でもある。長門本の巻冊数については、松尾葦江『平家物語論究』(明治書院、1985年)第三章「長門本の基礎的研究」210頁から216頁に詳しい。

 


浜畑 圭吾(はまはた・けいご)
龍谷大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。博士(文学)。
高野山大学文学部准教授。
著書・論文に、『平家物語生成考』(思文閣出版、2014年)、「長門本平家物語の「三鈷投擲説話」—『源平盛衰記』との比較から—」(『古典文藝論叢』1号、2009年)、「長門本平家物語の慈念僧正による真済教化説話」(『佛教文学』31号、2007年)など。


「軍記物語講座」全4巻
第1巻『武者の世が始まる』 2020年1月刊 本体7,000円
第2巻『無常の鐘声―平家物語』 2020年 5月刊予定
第3巻『平和の世は来るか―太平記』 2019年10月刊 本体7,000円
第4巻『乱世を語りつぐ』 2020年 5月刊 本体7,000円


軍記物語講座によせて
  11. 中村文「歌人としての平家一門」
  10. 本井牧子「古状で読む義経・弁慶の生涯―判官物の古状型往来―」
  9. 田中草大「真名本の範囲」
  8. 木下華子「遁世者と乱世」
  7. 堀川貴司「和漢混淆文をどう見るか」
  6. 中村文「頼政の恋歌一首―『頼政集』五〇七番歌の背景 ―」
  5. 藏中さやか「和歌を詠む赤松教康―嘉吉の乱関係軍記、寸描―」
  4. 渡邉裕美子「みちのくの歌—白河関までの距離感—」
  3. 石川透「軍記物語とその絵画化」
  2. 長坂成行「『太平記』書写流伝関係未詳人物抄」
  1. 村上學「国文学研究が肉体労働であったころ」